鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴《草上の昼食》《オランピア》に関する主な研究は以下。前者については注⑶も参照。PaulHayes Tucker (ed.), Manetʼs ʻLe Déjeuner sur lʼherbeʼ, Cambridge: Cambridge University Press, 1998;Theodore Reff, Manet: Olympia, London: Allen Lane, 1976; T. J. Clark, The Painting of Modern Life:Paris in the Art of Manet and His Followers, Princeton: Princeton University Press, 1984.公の場で表すことにこそあり、リバルタとベラスケスに学んだ自らの作品のうちに、その記憶を留めておくことを望んでいたと言っても良いだろう。4.結語マネは1864年のサロン出品作を通じて、同年に公開を終えるプルタレス・コレクションに受けた芸術的な恩恵を明らかにした。過去の巨匠を再解釈した作品を描くことは、《草上の昼食》や《オランピア》でも見せたマネの手法の一つである。しかしながら、その着想源に気がついた批評家は一人しかおらず、出品意図を探ろうとする者も現れなかった。《死せるキリストと天使たち》は、キリストの描写がルナンの著作と関係づけられ非難されたが、批評家たちは批判に集中するあまり、作品の着想源にまで思い当たらなかったのかもしれない。本稿では、マネのサロン出品作の選定について新たな仮説を提示したが、これは美術批評や関係する同時代資料を総合的に分析することで初めて得られた知見である。マネが出品した1860年代のサロンは合計6回ありながらも、先に述べた通り、《草上の昼食》《オランピア》以外の受容研究は不十分なままである。本研究課題においては、他の年度のサロン批評の徹底的な調査も行っているため、それら資料を活用し、1860年代のサロン全体を俯瞰したマネの同時代受容の諸問題を論じることが、今後の課題である。⑵1864年のサロン批評の調査は以下の文献を参考に行った。Christopher Parsons and Martha Ward,A Bibliography of Salon Criticism in Second Empire Paris, Cambridge: Cambridge University Press,1986, pp. 120-140. また、調査結果は〔表1〕にまとめた。⑶「落選者のサロン」の開催経緯、同サロンでのマネの受容については以下を参照。三浦篤「絵画の脱構築─マネの《草上の昼食》とパレルゴン」『西洋美術研究』第9号、三元社、2003年、101-125ページ。井口俊「1863年の『スキャンダル』─エドゥアール・マネ《草上の昼食》と落選者のサロン」『レゾナンス』第9号、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、2015年、9-17ページ。⑷作品の着想源など《闘牛場の出来事》に関する議論は以下を参照。本作は1864年のサロン終了後マネ自身により切断され、現在では二つの独立作品〔図2、3〕に分かれている。TheodoreReff, Manetʼs Incident in a Bullfight, New York: The Frick Collection, 2005.― 212 ―― 212 ―⑸Explication des ouvrages de peinture, sculpture, architecture, gravure et lithographie des artistes vivants,

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