鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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3,草牧の信仰最後に、草牧のキリスト教理解と信仰について検討を加えたい。草牧は17歳のとき、日本基督教会(1941年より日本基督教団)大阪西教会にて洗礼を受けた(洗礼名「Mark」)。栖鳳門下に入り、麦僊に師事するようになった時期からは、日曜学校校長も勤めており、敬虔なクリスチャンであったと考えられる。しかし、滞欧期の草牧の日記においては、「宗教にも、生命がけではいりきれない、生ぬるい私自身を今までから、どれだけ苦しんで来たか知れません」(注17)、「愛の精神(所謂隣人の愛)と云ふものがまるで出来て居ない」(注18)という記述が確認でき、草牧が信仰について苦悩していた様子がうかがえた。ローマ、サン・ピエトロ大聖堂について、「どちらを見ても金ぴかで、(略)少しでも芸術味があるとか、有難味のあるものはありませんでした。丁度現代のカトリコオをよく象徴して居ると思ひました。」と非難しており(注19)、プロテスタントの草牧は、古い時代のカトリックが生み出した芸術には惹かれたが、同時代のカトリックの信仰にはなじめなかったようである。日記にはカトリックの信仰の態度に対する批判もみられた。パリ、ノートルダム大聖堂を受難日に訪れた草牧は、「尊大な僧侶たち」「十字架像の番をして賽銭を受取っている小僧の面憎い顔」「沢山な迷信」に腹立たしい気持ちになったと綴り、形式の好きな人はカトリックを褒め、プロテスタントをけなすが、そのような志向は、「西洋人がゲイシャやマイコ・ガアルを喜び、サムライやオイランを推賞するのと同じこと」だと述べて、「自分の信じて居る宗教をおもちやにし、基督をけがして居る人たちを見て立腹する」と激しくカトリックを批判している(注20)。このように草牧は「プロテスタントの信仰と芸術との板ばさみになって苦しんで居た」(注21)ようである。この時期に、日本基督教会で指導的役割を果たした牧師・神学者であり、イギリス、オックスフォード大学に留学中であった高倉徳太郎(1885-1934)とパリで出会っている。高倉は草牧に対して、近頃カトリックに興味を持っていると明かして、「プロテスタントはSoulを重んじて、Senseというものを重んじないが、カトリックはセンスを重んじるから、芸術もそこから生まれるのであり、文芸復興期に前んずる黄金期にはダンテ、トマソ・ダキノ、ジョットといった人々が宗教と芸術とを生かした。現在のプロテスタントには弊害があり、それを改めたい」と語ったようで、草牧は高倉と宗教と芸術との関係について話し合えた喜びを綴っている。ところで、1927年(昭和2)、草牧が日曜学校での対話劇の台本から10話を選び掲載した『聖子降誕』が日曜世界社から出版されている。掲載された対話劇は、「聖子― 234 ―― 234 ―

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