鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
245/455

降誕」「牧羊者ダビデ」「ダビデの避難」「葦舟の嬰児」「失はれし銀貨」「善きサマリア人」「雪崩」「収税吏ザアカイ」「聖フランチエスコ」「帰れる子」である。加えて、「対話の演出に就て」と題する、演者の年齢や性別、背景、扮装、小道具などについて指導した文章、附録として、「フラテ・アニヨロの祈祷の歌」「ダビデの琴唄」「糸繰歌(ミカル独唱)」「エスきみよ、エスきみよ」の楽譜が掲載されている。表紙・裏表紙は、草牧による「尼留西河畔嬰児救助之圖」であり、「草牧写」の文字と「馬留可」の印が確認できる。そのほかに、日曜学校での劇の様子を写した写真や、草牧による挿画も確認できる。これらの対話劇は、尋常二三年生から中学や女学校の四五年生が演じることを想定していたことから、平易な会話文の形式で記されている。内容は、罪を犯した人間を許し、自身を犠牲にして人を助ける、といった行いによって、神の助けが得られることが説かれている。このことから、草牧の信仰は、カトリックの伝統的な儀式を重んじる態度を批判したことからも、聖書を重視する態度であったと考えられる。そのため、プロテスタントの信仰と芸術との間で苦悶したのではなかろうか。2 国画創作協会におけるイタリア美術受容最後に、国画創作協会におけるイタリア美術受容について検討を加えたい。まず、麦僊は、遊学前にジョットを高く評価しており、イタリア旅行でもジョットの作品を積極的に見た。しかし、ジョットを実見した麦僊は、「ヂヨツトの簡ケツもいゝけれども近代人はあのプリミチーブでは満足出来ない」と綴っている。自らの空想する色形線を女性というモティーフを借りてロマンチックに表現したいという麦僊は、ジョットのプリミティブな表現を好まなかったと考えられる。一方で、素材技法については、ポンペイの壁画の色彩の美しさを称賛し、明るく柔らかな色彩と不透明な肌理の追究に向っており、草牧の関心と共通した部分がみられることが理解できた。次に、イタリアで草牧と約3ヶ月間二人で過ごした波光は、ピエロ・デラ・フランチェスカに傾倒するとともに、13世紀のフィレンツェ派の壁画の色調とポンペイの壁画を気に入っていたとされる。波光と草牧とは、《素描 パドヴァ アレーナ ジオット》(大正11年(1922))、《素描 フィレンツェ マリア戴冠》(大正11年(1922))など同じ作品を模写しており、また、波光の助言を受けて草牧が作品を制作するなど、かなり親しい仲であったようである。波光がイタリアを題材とした作品には、《南欧小景(聖コスタンツァ寺)》(大正11年(1922))があり、南欧の穏和な情景という点で《ポジリポの漁家》と共通する雰囲気をもつ作品でもあるが、波光の緑色の色調と― 235 ―― 235 ―

元のページ  ../index.html#245

このブックを見る