ルテミジアにとって、いわば「同郷人」である彼らの存在は重要性を持っていたのではないかと考えることが出来る。つまり、アルテミジアはカール・オイゼビウスという遠方の大貴族からの受注を得る際に、フィレンツェ人コミュニティの人脈を用いていたのではないかと推定されるからである(注15)。また彼女には、長らく生活を共にしたフランチェスコ・マリア・マリンギ(1593-1653年以降)というフィレンツェ貴族のパートナーがいたことも知られている(注16)。筆者の調査により、彼もまたサン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂に記録を残していることが判明した(注17)。アルテミジア自身の記録は、今日この聖堂に保管されている史料の中には登場しないものの、周辺人物に関する状況に鑑みて、彼女もまたこのフィレンツェ人の共同体と何らかの関わりを持ち、その人脈を制作活動に利用していたと見ることができる。3.ジェンティレスキ一族の造形的な影響関係このように、ナポリ時代のアルテミジアの活動とトスカーナの人脈の関わりが指摘できる一方で、造形面におけるトスカーナとのつながりは一見して薄いように見える。アルテミジアのフィレンツェ滞在期の作品と同時代のフィレンツェ絵画との影響関係は、これまでも考察されてきたが、1630年代以降のナポリにおける画業とトスカーナ美術との関係は、あまり取り上げられてこなかった(注18)。現在プラド美術館にある《洗礼者ヨハネの誕生》〔図7〕を例に考えてみよう。この作品は、マドリード郊外のブエン・レティロ宮を飾るため、スペイン王のために描かれた連作のうちの1枚である(注19)。くしくもフィレンツェの守護聖人洗礼者ヨハネの画題をスペイン王のために描くことになった時、アルテミジアはどこから着想源を得たのだろうか。ひとつの可能性として、ジェノヴァのサン・シーロ聖堂に現存する、アルテミジアの伯父アウレリオ・ローミ(1556-1624年)の作品〔図8〕が挙げられる(注20)。アウレリオは主にピサとフィレンツェで活躍した画家で、その画風はトスカーナの後期マニエリスムの様式を強く保持している(注21)。ふたりの作品を比較すると、前景で三角形を形づくる3人の侍女たちの造形や、抱き上げられながら片手をあげてそれに応える幼いヨハネの特徴的なポーズなどに共通性が見られる。なお、アウレリオの作品は左端が切られており、当初アルテミジアの作品と同じく、侍女は4人だったことが準備素描〔図9〕からわかる。アルテミジアがいつ伯父の作品を見たかは明らかでないが、彼女は何らかの形でこの伯父の作品を知っていたのではないだろうか(注22)。― 242 ―― 242 ―
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