鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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また、彼女がナポリ移住後も連絡を取り合っていた父オラツィオの影響も想定できるだろう。オラツィオが当時宮廷画家として働いていた英国で制作し、スペイン王に贈った《モーゼの発見》〔図10〕には、極めて明朗な色彩で、優雅な女性群像が表されており、アルテミジアの作品と同じく右手に跪く女性像が描かれている。この作品をスペインに送り届けたのは、オラツィオの息子で、アルテミジアの弟であるフランチェスコである(注23)。フランチェスコは1633年の10月に作品をスペイン王に渡した後、イタリア各地を回っていたと見られ、アルテミジアは1635年の書簡でこの弟が工房の様々な用事をこなしていると述べている(注24)。これと同じ頃、アルテミジアはスペイン王のための作品(《洗礼者ヨハネの誕生》と見られる)を仕上げたと述べている(注25)。つまり、アルテミジアは弟を通じて、父の作品の情報を得ることが可能であったと思われる。通常、カラヴァッジョ的な自然主義の実践であると見做され、時にナポリにおけるカラヴァジズムとボローニャ派古典主義の折中的な作品と認識されている《洗礼者ヨハネの誕生》は、造形面でジェンティレスキ一族のコネクションを反映している可能性があり、彼らが有していたトスカーナ的な絵画伝統とも無縁ではないといえる(注26)。4.女性裸体像制作に見るフィレンツェ時代の記憶既に言及した1636年のリヒテンシュタイン公の注文からの受注作品(《バテシバ》、《スザンナ》、《ルクレティア》)に見られるように、アルテミジアのナポリにおける画業において重要な位置を占めていたのは、女性裸体像の制作である(注27)。ポツダムにある《バテシバの水浴》〔図5〕に代表されるような1640年代の女性像は、ポンマースフェルデンにある初期の裸体像である《スザンナの水浴》〔図3〕とは全く異なっている。スザンナに特徴的な量感や激しい感情の表出は見られず、描かれた女性たちは、気取ったポーズをとって静止しているかのようだ。しかし、一方で、アルテミジアが画業の初期に生み出したもう一つのタイプの女性像とは関連があるように見える。それは、フィレンツェのカーサ・ブオナロティにある《インクリナツィオーネ》〔図6〕である。この寓意像とバテシバはちょうど鏡に映ったようによく似たポーズをとっている(注28)。薄いベール以外ほぼ全裸のバテシバと同じく、《インクリナツィオーネ》の寓意像も制作当初は全裸であったとわれている(注29)。アルテミジアがフィレンツェで生んだ優美な女性裸体像が、数十年を経てナポリで蘇り、アルテミジアの代表的主題の中に入り込んでいる点は大変興味深い。晩年の女性裸体像に見― 243 ―― 243 ―

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