ものの(注5)、当時の芸術雑誌 Deutsche Kunst und Dekoration(ドイツの芸術と装飾)に展示風景写真が2点掲載されていた〔図7a、8a〕。したがって、こちらは図像から視覚的にモデルの同定を試みた。実際、この写真に写ったいくつかの作品については、すでにヘレン・ビエリ・トムソンが先行研究で言及しており、それに加えて筆者が新たに同定したモデルをまとめたものを〔表2〕に示す。この展覧会で、ドイツ国外からの唯一の招待作家だったガレには「紫の部屋」と呼ばれる一部屋が丸ごと割り当てられ、部屋全体を設えるように、ガラス、陶器、家具など合わせて実に114点もの作品が一堂に会したのだという(注6)。2-3.フランクフルトとガレの関わり今回最後の調査対象とした都市フランクフルトは、ガレが1897年9月15日に委託販売店を構えた地であり、翌1898年3月には、同地の装飾美術館がその作品を展示したという記録が残っている。こうしたガレの足跡を知るため、まずは装飾美術館の後身にあたるフランクフルト応用美術館の図書室に問い合わせた。しかし、アーカイブ担当者によれば、第二次世界大戦によって戦前の資料の多くは失われてしまったこともあり、ガレに関係する展覧会目録や資料は現存しておらず、出品作品の手がかりは得られなかった。ただ、前節で確認したダルムシュタット展のガレの部屋は、フランクフルトの「Seyd & Sautter」という家具店が手がけたということが壁にかかったポスターから分かっている〔図8a〕。ガレはサロンや博覧会への出品作品の選定と演出にはこだわりを持っていたが、ドイツの博覧会となると、必ずしも現地に足を運ぶことはできなかったのだろう。実際の展示は、ガレの指示に基づいて現地の店が引き受けていたという状況を見てとることができ、フランス国境からも比較的近く、ドイツ国内では中央部に位置するフランクフルトは、ガレのドイツ進出の拠点となっていたと考えられる。3.ドイツ進出の意味今回の調査で、ミュンヘンやダルムシュタットへの出品モデルの一部が新たに明らかになった。では、それらはより具体的にはどのような作品で、ガレがこの時期にドイツに進出したことにはどのような意味があったのだろうか。3-1.1900年前夜としてのドイツ博覧会ガレは1889年パリ万博で、とくにガラスの部門ではグランプリに輝き、すでにフラ― 251 ―― 251 ―
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