ンスを代表する芸術家としての評価を獲得していた。また、ガレの成功は個人的な名誉にとどまらず、それまで芸術のジャンルとして正当に認められていなかった工芸や装飾芸術という分野の存在感を高めることにもなった。だが、分野全体が興隆するということはすなわち、新たに優れた作家たちが現れ、ガレの地位を脅かす強力なライバルに成長しつつあったということを意味する。ガレと同じナンシーを拠点に、まさにガレのあとを追うようにして頭角をあらわしたドーム兄弟はその代表で、実際、1900年パリ万博ではガラス部門のグランプリをガレと同時受賞することになる。もともと1900年パリ万博では、審査員になることを要請されていたガレが、それを断ってあくまでも出品者の立場にとどまることを選び、けっして自身の芸術的探求の手を緩めなかったことはよく知られている。こうした経緯を鑑みれば、ドイツ博覧会への出品が相次いだ1890年代後半は、ガレがいわば防衛戦に臨む王者の立場で準備を整えていた「1900年前夜」として位置づけられるのである。このことを踏まえて、今回モデルが同定されたミュンヘン・ダルムシュタット出品作品をあらためて見直すと、その一部がのちに1900年パリ万博にも出品されているという事実を、たんなる偶然と見なすわけにはいかないだろう。ビエリ・トムソンが指摘しているように、ドーム兄弟らの登場によるフランス国内での競争の激化に加えて、「目前に迫ってきた1900年パリ万博では参加国間の競争が熾烈なものとなることが予想され、それに先立つこのタイミングで、ライバルとなる国で作品がどのように評価されるのかを知ることは、自らがどの程度優位に立っているのかを確かめるために意味のあることだった」(注7)のだ。1897年のミュンヘン展と1898年の分離派展はともに、その前の回までは設けられていなかった部門「VII. 小芸術 Kleinkunst」が創設されたことで、ガレの出品が可能になった。また1898年のダルムシュタット展は、翌1899年にルートヴィヒ大公によって芸術家コロニーが正式に召集されるのに先立って開催されており、フランスにやや遅れをとりながらドイツの世紀末芸術の基盤が整ってきた時期が、1900年パリ万博を控えたガレにとって、その前哨戦に打って出るべき格好のタイミングに重なったと言えよう。たとえば今回、ダルムシュタット展出品作品の同モデルとして同定された北澤美術館の《木蓮文水差》〔図9〕には、マルケトリという技法が使用されている。これは、器の本体が熱いうちに別に作っておいた装飾モティーフをはめ込むように溶着する、いわばガラスの象嵌細工である。1897年制作の本作は、まだ試行錯誤の痕が見られるマルケトリ初期段階の作例で、翌1898年にガレはマルケトリー技法の特許を取得することになる。ガレはこうした新技法をフランス国内だけでなく、ドイツの批評― 252 ―― 252 ―
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