鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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家や観客にも問うことで、パリ万博に向けて、作品を改良・洗練する糸口をつかんでいったのだろう。3-2.《イチジクの聖杯》技法上の試みに加えて、ミュンヘンとダルムシュタットへの出品作品のうち、なかでも興味深いのが、分離派展に出品され、同一モデルが現在ナンシー派美術館に所蔵されている《イチジクの聖杯》である。ナンシー派美術館所蔵作品は、「exposit. / 1900」という刻印から、1900年パリ万博出品作品そのものだと考えられる〔図10:右上に《イチジクの聖杯》が写っている。〕。また、1898年5月1日から開催された国民美術協会展(注8)にも同じモデルの出品歴があるが、これは分離派展とちょうど重なる時期であり、ガレは本モデルを、言葉どおり同時に、フランスとドイツの両国で展示していたということになる。さらに本モデルは、同じ年の秋に開催されたダルムシュタット展の写真にもその姿が認められる。〔図7a〕の左から2番目の飾り棚の上段左端に、ほとんど背面に映った影としてではあるが、この特徴的な聖杯の形を見てとることができるのである。本モデルにはこれまで、1900年パリ万博とそれに先立つ1898年の国民美術協会展への出品歴のみが帰属していたが、今回の調査によって、1898年の時点で、ミュンヘンとダルムシュタットの二度にわたって、ドイツ国内でも発表されていたということが明らかになった。さらに、本モデルは、たんにユゴーの詩を取り入れた「もの言うガラス」であるというだけでなく、1894年に起きたドレフュス事件に対するガレの主張を込めた作品として制作された。普仏戦争に破れ、アルザス=ロレーヌ地方割譲という屈辱に甘んじていた当時のフランスでは、ドイツへの憎悪やその裏返しとしてのナショナリズム、経済上の理由による反ユダヤ主義が高まりを見せており、そうした背景から引き起こされたのがドレフュス事件であった。ユダヤ系のアドルフ・ドレフュス砲兵大尉が、ドイツへの内通者であるという無実の罪で島流しにされたこの事件は、やがてドレフュス擁護か軍部の正当化かを巡ってフランスを二分する論争へと発展する。普仏戦争が勃発したとき24歳だったガレは義勇軍に志願しており、作品にもしばしばロレーヌ地方の象徴であるアザミの花やロレーヌ十字(横棒が2本入る十字模様)を取り入れているように、愛郷心の強い人物である。だがドレフュス事件に際しては、のちに真犯人が判明しても隠蔽を図った軍部の不正義を非難し、ドレフュス大尉を擁護する立場をとった。つまりガレにとって、故郷ロレーヌ地方への思いは強くとも、人道的・共和主義的理念を踏みにじり、経済的・政治的利権のために歪められた偽の― 253 ―― 253 ―

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