愛国主義は、断罪すべき対象だったのだ。こうした背景を踏まえて本作を見直すと、長い脚部を流れ落ちるふた筋の水滴のようなモティーフは、銘文「人はみな、一人の父(神)の子なのだから、涙も同じ目から出る同じもの」との関連から「涙」であることが読み取れ、それは事件の犠牲者となったドレフュスの涙を暗示する。器全体を覆うイチジクのモティーフは、旧約聖書に基づく「ユダヤ人」の象徴であり、これもドレフュスの出自に重ねられている。さらに、杯の部分の側面にはアルファベットの「X」と「P」の文字が組み合わされた浮き彫りも見られるが〔図11〕、これは、ギリシャ語で「キリスト」をあらわす「Χριστος」の最初の二文字を組み合わせた意匠で、ドレフュス事件がキリストの受難にも重ね合わされ、多層性をもつ装飾に仕上がっている。また、本モデルには、ガレ自身が語った言葉も残されている。1898年のサロンの出品に際して、当時Revue des Arts Décoratifs(装飾芸術時評)誌の出版責任者を務めていたヴィクトール・シャンピエに宛てた文章の中で、ガレはつぎのように述べている。「最後に、無花果の木をあしらった作品では、花瓶の胴の部分に沿って人の涙のようにガラス塊が流れています。[中略]苦しみ死んでいったお方の荘厳なしるしを、この作品の中に信仰心と苦しみをもって彫り込みました。 親愛なるシャンピエさん、どうして私がこの作品を一点だけでなく数点作り、また心が通じあうようにと、できるだけ大きく深く作ったか、おわかり願えると思います。」(注9)ガレにとって作品制作は、造形上の探求であっただけでなく、ときに政治的・思想的主張を表明する手段にもなった。上述のコメントの最後に、ドレフュス事件に対する考えを広く共有するために、ガレが本モデルを大きなサイズで、しかも複数制作したことが強調されている。このことは、実際に本モデルが、フランスのサロンに加えて、ミュンヘンにもダルムシュタットにも出品され、さらには1900年パリ万博出品へと繋がったことと符合する。すなわちドイツの博覧会への出品には、ビジネス上の戦略や1900年に向けての準備という意味合いに加えて、より多くの観衆に自身の考えを伝えようという意図も込められていたのである。4.ドイツにおけるガレの評価では、ドイツへと進出したガレの試みは、肝心の作品そのものを巡ってはどのよう― 254 ―― 254 ―
元のページ ../index.html#264