に評価されたのだろうか。ここでは、当時の芸術雑誌や文献に寄せられた声に耳を傾けてみたい。まずは1897年のミュンヘン展についての評である。「数は多いとは言えないが、芸術的価値が認められるのがガラス部門の作品群である。『工場での大量生産品』的な性質を感じさせる作品は少しも存在しなかった。すべての作品が独創的である。[中略]ガレは、層状に重ねられたガラスを半透明の岩石のように扱い、そこから花やその他のレリーフを切り出している。ケピング[筆者補足:ガレと同じ部門に出品していたドイツのガラス作家カール・ケピング Karl Koepping]のガラスは、繊細さと軽やかさの点で、品質が保持されるかどうかの限界に挑んでいる。対してガレの仕事は、ガラスの塊をそれ自体として効果的に用いており、量感があり、重厚で、硬質なため、モニュメンタルな性質をも獲得している。同時にガレは、統一的な彩色と層状ガラスを独自の技法でものにすることで、ケピングにも劣らぬ繊細さにも到達している。ガレはまた、多くのガラス作品に、詩やそれに類する銘文を刻んでおり、それが装飾の基本的な雰囲気を方向づけている。このことは、『標題音楽』への敵対者からは非難されているものの、こうした手法によってガレは、優れた作品が生まれるときには詩的な感覚が作家を導いているということ、その瞬間作家はある思考をたどったのだということ、そして何も語らない装飾など拒否すべきものだということを示している。」Leopold Gmelin “Kleinkunst auf der Münchener Kunstausstellung”Kunst und Handwerk, Vol. 1, 47. Jg., 1897-98 Heft2, November 1897, S. 55.この評では、ドイツのガラス作家カール・ケピングをいちばんに取り上げつつも、続いてガレに言及し、両者の美点を対比的に紹介している。文学作品の引用というガレ独自のスタイルについても言及があり、言葉の力を借りることでより豊かな作品世界のイメージを喚起しようとするこの手法を「標題音楽」に喩えて、それが一定の効果を生んでいると結論づけている。しかし一方で、まさにこの「『標題音楽』への敵対者」からの批判的な意見も見られる。こちらは1898年の分離派展についての評である。「総じて残念だったのは、国外の、とりわけフランスとベルギーの小芸術であった。ガレの有名なガラスやアンリ・ノック[メダイユ彫刻家Henry Nocq]の陶― 255 ―― 255 ―
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