鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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⑿Bettina Best, “Internationale Gäste der Münchner Secession. Frankreich und München. DiePleinairmalerei der Schule von Barbizon und der impressionistischen Tendenzen Frankreichs in derAusstellungen der Secession”, Hrsg. von. Michael Buhrs, Die Münchner Secession 1892-1914, Neu-Isenburg: Edition Minerva, 2008, SS. 207-214.⑷出品作品の全貌については、松山(2017)を参照のこと。ミュンヘン展では、ガレは小芸術部門最多の20点を出品し、そのうち14点には文学的タイトルが付されていた。また分離派展でも、ガレは同じく部門最多の20点を出品し、そのうち4点が文学的タイトルだった。⑸1898年の展覧会を組織したダルムシュタット芸術家自由協会は、その後1901年に芸術家コロニーへと発展する。ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒら参加メンバーが手がけた建築は現存しており、美術館も併設された「マティルデの丘」として運営されている。今回の調査では、文献調査に加えて、この美術館にも目録の有無を直接確認したが、該当する資料は保存されていなかった。で、1899、1900、1901年を除く毎年出品した。⑼この文章は、サロン開会の直前、1898年4月29日付で書かれ、Revue des Arts Décoratifsの1898年第18巻に掲載された。ここでは、由水常雄編、岡田博・山田照雄・西脇礼門訳『ガレの芸術ノート』、瑠璃書房、1980年、97頁に再録された和訳を参照。⑽ガレと同時代に、いち早くフランスの工芸や装飾芸術をドイツで紹介していたグスタフ・E・パツァウレクGustav E. Pazaurekは、1904年の文章の中で「ドイツ的な感覚にとって、ガレはようやく近しいものとなってきたに違いない。純血のフランス人というのは、われわれには最初から即座に理解できるものではないのだ」(Das Kunstgewerbe in Elsas-Lothringen 5, 1904/05,S.171ff. なお、本稿ではKunst der Jahrhundertwende und der zwanziger Jahre. Sammlung Karl H.Bröhan Berlin. Band II Teil1, Berlin: Karl H. Bröhan, 1976, S. 16の抄録を参照した)と述べており、当時フランスとドイツの間に少なからぬ芸術理念や様式の相違が横たわっていたことを示唆している。さらにビエリ・トムソン(2005)によれば、ガレはフランクフルトの委託販売店のショップ・カードのイラストに、芸術性の高い一点ものの作品ではなく、シンプルなワイングラスを選んでいた。このグラスの作風はしばしばガレと比較されたドイツの作家ケピングのそれと似ていることからも、ガレ自身も、ドイツでは、ドイツ人の趣味に受け入れやすい作品を戦略的に宣伝に使用していたのではないかとビエリ・トムソンは考察している。⑾今回の調査では、同定可能な銘文入り作品をおもな対象とし、ドイツに出品され、その後パリ万博にも出品されたモデルに注目した。この時期の出品状況をより包括的に明らかにするには、銘文のない作品の同定、ドイツには出品されたがパリ万博には出品されなかったモデルについての考察も必要になるだろう。― 258 ―― 258 ―⑶François Le Tacon, “Citations et Dedicaces”, in: François Le Tacon, LʼOeuvre de Verre dʼEmile Gallé,Paris: Ed. Messene, 1998, pp. 200-213.⑹Helen Bieri Thomson, “Emile Gallés Beziehungen zu Deutschland”, in: Ausst. Kat. Emile GalléJugendstilmeister aus Nancy, Karlsruhe: Badisches Landesmuseum Karlsruhe, 2005, SS. 17-31.⑺Bieri Thomson, Ibid., SS. 17-31. この論文においてビエリ・トムソンは、ガレはすでに1880年代半ばより、ドイツを新たな市場として注視していたことも指摘している。ベルリンの工芸美術館で中国ガラスのコレクションを見学した1885年の旅行の際、ガレは販売店経営者や個人の顧客とも接触し、ドイツへの販路拡大が十分現実的なものであるという感触を掴んでいたという。⑻通称シャン・ド・マルスのサロン。ガレは1890年に会員となり、1891年以降亡くなる1904年ま

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