鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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㉕ 鎌倉時代の文殊菩薩像の展開と信仰に関する研究研 究 者:慶應義塾大学大学院 文学研究科 後期博士課程  増 田 政 史はじめに文殊菩薩が脇侍を従える群像形式は、五台山文殊として広く知られている(注1)。五台山は現在の中国・山西省東北部に位置し、古くから文殊菩薩の住処として信仰されてきた。唐代においてその信仰は最盛期を迎え、信仰の広がりとともに壁画や彫刻などで表現されるようになる。文殊菩薩が五台山に住むという信仰は仏駄跋陀羅(359~429)訳『華厳経』巻二十七「菩薩住処品」のなかで(注2)、「東北方に菩薩の住処有り、清涼山と名づけ、過去の諸の菩薩は常に中に於いて住せり。彼に現に菩薩有り、文殊師利と名づけ、一万の菩薩の眷属有りて、常に為に説法す。」(原文漢文、読み下し)と記される。この記述に基づき、現存する五台山文殊の作例は脇侍を従える群像形式であることが確認できる。文殊菩薩群像の日本への請来は、平安時代、天台宗の僧である円仁(794~864)や東大寺僧・奝然(938~1016)によるものと指摘されている。本報告では、文殊菩薩群像の作例が増加する鎌倉時代の作例を主に取り上げ、文殊菩薩群像の像容の展開と造像背景について検討を加えていきたい。1.文殊菩薩の服制及び像容についてまず、中国における文殊菩薩群像の作例をみてみる。その尊像構成は、三尊形式、五尊形式、七尊形式など、いくつかバリエーションがあることが認められる。特に絵画作例を例に挙げると、三尊形式については、ペリオ請来の敦煌版画であるパリ国立図書館本(10世紀末~11世紀初)や京都・清凉寺釈迦如来立像の納入品のうちの文殊菩薩画像(10世紀)がある。次に五尊形式はペリオ請来のパリ国立図書館本白描文殊五尊画像や宋画写しとされる京都・醍醐寺本五台山文殊画像(諸文殊図像のうち、13世紀)などが知られる。そして七尊形式については、ともに宋画写しとされ、13世紀頃の製作と考えられる東京国立博物館本〔図1〕及びアメリカ・クリーブランド美術館本〔図2〕が現存している。他に、中国・敦煌莫高窟第159窟の文殊菩薩変相図では獅子に乗る文殊菩薩の周りを数多くの眷属が囲んでいる。これは先に触れた通り、文殊菩薩が「一万の菩薩の眷属」を従えるという『華厳経』の記述に基づくものと考えられる。このように文殊菩薩の群像形式にはいくつか種類があるものの、金子啓明氏の指摘によれば、中国で五尊形式が主流であった形跡は認められないにもかかわらず、日本の文殊菩薩群像の作例の場合はほとんどが五尊形式であるという(注3)。― 262 ―― 262 ―

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