鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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管見の限り中国作例にはみられず、日本で独自に選択された形式かと思われる。絵画作例のなかで代表的な存在は、鎌倉時代の製作とされる醍醐寺本渡海文殊図〔図7〕であろう。周囲の脇侍四軀は、中国作例や宋画写しとされる作例に見られる形姿を忠実に踏襲しているのに対し、文殊菩薩は密教尊の五髻文殊であることが注目される(注8)。なぜ文殊菩薩の姿に五髻文殊を採用したかは明らかにしがたいが、醍醐寺本の形式に類似する大阪・叡福寺本や、後代に醍醐寺本及び叡福寺本を模したとみられる南北朝時代の金戒光明寺本〔図8〕の存在から、一定の流行や規範性を有していた様子が窺える。ちなみに、金戒光明寺本の左上方、すなわち渡海する文殊五尊の後ろの遠方には小さな山々が描かれている。文殊五尊の作例がもとより五台山に文殊菩薩が住むという信仰に源流があることを踏まえると、ここに描かれた山が五台山の可能性も考えられよう。さて、彫刻作例に目を転じてみると、東京国立博物館騎獅文殊菩薩及脇侍像(以下、東博五尊像)〔図9、10〕の存在が注目される(注9)。東博五尊像にかつて納められていた品は、現在、東京・大東急記念文庫に所蔵されている。この納入品によれば、東博五尊像は興福寺僧・経玄が発願し、仏師・康円によって造像されたという。さらに納入品のうち、造像願文中に、「文殊師利大聖尊三世諸/以仏為母之金言因茲抽懇志之誠造立三尺/聖容四類眷属依夢想之告図絵一体/童子三人神人矣」(/は改行位置)と記される。般若訳『大乗本生心地観経』に説かれる(注10)、「文殊師利大聖尊、三世諸仏以為母」を金言とし、三尺の聖容(文殊菩薩)と四眷属を造像し、また夢告によって「一体/童子三人神人」を図絵したという。前者が像本体にあたり、後者が納入品の金剛般若波羅蜜経の見返絵にあたる。見返絵に描かれた童子については、春日若宮の本地仏である文殊菩薩の稚児の姿であることが先行研究で確認されている(注11)。ここで、納入品を通じて春日若宮への信仰の様子がみられる東博五尊像において、春日若宮が五髻文殊の姿で表現される作例が確認されていることは看過できない。例えば、東京国立博物館文殊菩薩立像(以下、東博像)がある。東博像は鎌倉時代の13世紀前半に造像されたと考えられる優品で、像内銘文や納入品の類は確認されていないものの、山本勉氏の研究により、奈良国立博物館十一面観音菩薩立像、アメリカ・アジアソサエティー地蔵菩薩立像とともに、春日四所若宮の本地仏五軀のうちの三軀であった可能性が指摘されている(注12)。これら三軀のうち、アジアソサエティー像に鎌倉時代当時、春日社と一体の関係であった興福寺旧蔵の伝来があることから、その正統性は極めて高いものと考えられる。もとより、鎌倉時代以降の春日曼荼羅に本地仏が描かれる作例は多く存在している。これらには坐像及び立像の両方の場合が― 264 ―― 264 ―

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