(3)その他の服制を採用する作例ある。しかし立像に関しては、五髻文殊が立像であることは儀軌に説かれておらず、この春日若宮の本地仏としての図像表現にもとづくと見られる。ちなみに、立像の五髻文殊の作例については山口隆介氏による研究がある(注13)。山口氏は、神奈川・阿弥陀寺に所在する五髻の文殊菩薩立像が、阿弥陀寺近隣にある箱根神社の権現の法体・文殊である可能性を指摘している。東博像及び阿弥陀寺像はともに立像であり、獅子に乗り眷属を従える東博五尊像の図像表現や尊像構成とは一致しない。ただし、春日曼荼羅に本地仏を描く場合、立像または円相中に坐す姿いずれかである作例がほとんどのなか、奈良・大和文華館本のように、若宮の箇所に獅子に乗る五髻文殊と獅子の手綱を引く優塡王を描くものもみられる。また、奈良国立博物館本春日文殊曼荼羅のように、醍醐寺本と同様に五髻文殊を中心に四眷属を従える形式ながら、遠方に御蓋山と春日山を描く絵画作例が製作されるようになる。すなわち、若宮の本地仏が文殊菩薩(特に五髻文殊)であることが広く解釈され、独尊だけでなく、脇侍を従える群像形式にも採用されるようになったと考えられる。次に、その他の服制を採用する場合である。京都・智恩寺像は五尊形式ではなく、優塡王と善財童子を従える三尊形式であるが、群像形式の文殊菩薩作例として触れておきたい。智恩寺像の文殊菩薩の髻は一髻であるが、襠衣ではなく袈裟をまとっている。また善財童子についても、条帛・天衣をまとい裙を着けて合掌する通例の形式ではなく、袍を着け両手で篋を捧げている。これは平安時代後期の中尊寺大長寿院像の善財童子と同様の形式である(注14)。また、鎌倉時代末の造像とされる奈良・唐招提寺像(同・竹林寺伝来)〔図11、12〕は五尊形式の作例である。唐招提寺像は明治時代に同寺に伝来したが、それまでは生駒の竹林寺に所在していたという(注15)。竹林寺は鎌倉時代に、奈良時代の高僧・行基の遺骨が出現したとされる場所で、以降、行基信仰の場として営まれるようになった(注16)。この竹林寺に、西大寺僧・叡尊の弟子で篤い文殊信仰を有していた忍性の遺骨が施入されたことを踏まえ、唐招提寺像が西大寺流の影響下で造像されたとする指摘がある(注17)。服制に注目すると、条帛及び天衣をまとう文殊菩薩は、ともに独尊であるが、平安時代造像とされる文化庁像(奈良・額安寺旧蔵)や鎌倉時代の奈良・良福寺(同・大和郡山市西町自治会)像と同様である。また五尊形式の文殊菩薩では、日本で現存最古とされる平安時代の高知・竹林寺像が古様な服制を採用していることは注目される。― 265 ―― 265 ―
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