鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
277/455

(2)興福寺及び唐招提寺をめぐる文殊菩薩作例納入するものの、その方法が西大寺流とは趣を異にする作例が先述の東博五尊像である。東博五尊像のかつての納入品であった、大東急記念文庫蔵金剛般若波羅蜜経の奥書を引用すると次の通りである(〈 〉内は割書き、傍線部筆者)。 文永十年〈癸酉〉八月六日彼岸第三日持斎無言而 始之同七日終功畢      大法師経玄〈生年六十六〉軸中仏舎利一粒奉安置之唐招提寺之御舎利相伝分明之子細也矣願以此書写 為菩提心始 奉籠文殊像 終致成正覚願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道又一粒奉籠〈弁藝舜定房之寄入後奉籠不動了解脱聖人所持之御舎利同年十二月廿五日〉又軸下一粒奉籠〈年来所持之舎利也〉すなわち、この箇所から分かることは、東博五尊像の文殊菩薩に①経玄感得の唐招提寺の舎利一粒、②弁藝寄入の解脱房貞慶所持の舎利一粒、③経玄の年来所持の舎利、の三種類の舎利が籠められていることである。①唐招提寺の舎利については、造像願文に大法師堯玄の沙汰によって経玄が感得したことが記されている。②の貞慶は興福寺で活動した高僧であることは言うまでもないが、奈良時代に鑑真が唐より舎利をもたらした唐招提寺においては釈迦念仏会を創始した人物であり、唐招提寺にとっても重要な人物であった。すなわち、興福寺僧である経玄にとって、興福寺で大きな事績を残した貞慶所持の舎利は当然ながら、唐招提寺の舎利も重要なものであったと考えられる。ちなみに、③の発願者の年来所持の舎利に関しては、同様の例として、奈良・中宮寺文殊菩薩立像がある。中宮寺像は類例少ない紙製の像としてつとに知られているが、昭和修理の際に像の基本構造を成していた経巻類が取り出され(注21)、現在は別置されている。これらの経巻類のなかに、かつて舎利を包んでいた包紙が二枚あり、それぞれの表裏に墨書きで願文及び年紀が記されている。ともに文殊菩薩の功徳を説いているが、一方の包紙の表に、「こくうさうの御しやり/一まんりうとしころた/もちまいらせたりつる― 267 ―― 267 ―

元のページ  ../index.html#277

このブックを見る