鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴五台山文殊については金子啓明氏による詳細な研究がある。を/文すほさつの御身にを/さめたてまつりをはりぬ」(/は改行位置)と記される。「としころた/もち」から年来保持の舎利を文殊菩薩に納めたことを記しているとみられる。この舎利の所有者に関しては明記されていないが、発願者と考えるのが自然であろう。中宮寺像の発願者については、もう一方の包紙の裏に記される「信□」が信如ないし信加と読め、前者とするならば、鎌倉時代に中宮寺を再興した同寺長老・信如(1211~?)のこととされる。信如は興福寺周辺の慈性院に住したことが知られ(『聖誉抄』)、さらに師は興福寺別当・信円(1153~1224)であり(『感身学生記』)、唐招提寺僧・覚盛(1194~1249)より受戒した(『聖誉抄』)。すなわち、ここにおいて、興福寺と唐招提寺をめぐる状況が想定され、これは先に触れた東博五尊像の場合に通ずるものと考えられるのである(注22)。おわりに以上みてきたように、鎌倉時代の文殊菩薩群像は五尊形式を基本とし、鎌倉時代前期の作例の図像表現は中国作例を比較的忠実に踏襲していた。しかし時代が下るにつれて、脇侍の図像表現は引き続き踏襲しつつも、中尊の文殊菩薩は中国作例には見られない五髻文殊の像容であらわされる作例や、条帛及び天衣という南都で伝統的な服制を採用する作例が造像されていく状況をみてきた。次に、鎌倉時代後期の文殊菩薩の作例のなかで舎利を籠める作例について検討してきた。特に文殊五尊の中尊・文殊菩薩へ舎利を籠める場合、その奉籠方法の特徴を比較し、西大寺流の影響下で造像された作例と、興福寺及び唐招提寺をめぐる作例との間で納入方法に異同がみられることを検討した。ただし、これらは明確に区分されるものではなく、西大寺、興福寺、唐招提寺などの寺院の間には、当然ながら相互に交流があったとみられる。すなわち、鎌倉時代の南都における寺院間の交流は認めつつも、各寺院の文殊信仰にはそれぞれに特徴があったと指摘しておきたい。また、本報告で十分に検討することができなかった各寺院の交流については、今後の課題としたい。金子啓明「文殊五尊図像の成立と中尊寺経蔵文殊五尊像(序説)」『東京国立博物館紀要』18、東京国立博物館、1983年。同「12・3世紀における文殊五尊像の展開」『鹿島美術財団年報』6、鹿島美術財団、1989年。同『文殊菩薩像(日本の美術314)』至文堂、1992年。⑵『大正新脩大蔵経』9、590a。⑶前掲注⑴金子1992論文。⑷紺野敏文「文殊菩薩 ﹁智恵﹂をつかさどる菩薩」田邉三郎助監修・紺野敏文責任編集『日本― 268 ―― 268 ―

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