鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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③豊前・豊後国における近世仏涅槃図の展開(1)大楽寺本について研 究 者:大分県教育庁文化課 主任  髙 宮 なつ美はじめに仏涅槃図は、仏画の中でも特に多くの作例が知られるものである。大分県および福岡県東部からなる豊前・豊後地方にも、数多くの仏涅槃図が伝来する。その多くは江戸時代の作例であるが、大分県日出町・蓮華寺本(鎌倉時代13世紀後期から14世紀初期)、大分県大分市・金剛宝戒寺本(鎌倉時代14世紀)、大分県宇佐市・大楽寺本(南北朝時代14世紀後期)など、中世に遡る作例も確認される。蓮華寺本は、画中に発願者と見られる人物が描き込まれ、制作背景を知る上で興味深い特徴がみられるものであり(注1)、また、金剛宝戒寺本および大楽寺本(注2)は、先行研究により詫磨派との関わりが論じられる。いずれも、豊前・豊後国における中世絵仏師の活動を知る上で重要な作例である。これら3幅の中世仏涅槃図のうち蓮華寺本および大楽寺本は、江戸時代の模本が大分県内各地の寺院に伝来しており、後世の絵仏師が仏涅槃図作成の際に原本としたことが確認される。特に大楽寺本は、江戸時代に豊前国を中心として活躍した海北友倩、道利という2名の海北姓を名乗る絵師たちによる模本が数多く確認されている。大楽寺本模本は、先行研究により、宇佐国東地域を中心に伝来していること、海北友倩・道利は江戸時代初期に豊前の国周辺を支配していた小笠原氏に仕えた絵師であることが指摘されてきた(注3)。一方で、各寺院に伝来する大楽寺本模本それぞれについての制作背景や、模本同士の関係性についてなどには、検討の余地が多分に残されているように思われる。本稿では、豊前・豊後国の近世仏涅槃図のうち、大楽寺本模本を取り上げ、個々の制作背景や原本と模本との関係性、多くの大楽寺本模本を手掛けた海北姓絵師について考察し、大楽寺本模本の位置付けを検討したい。大楽寺本模本について検討するにあたり、まずは原本となった大楽寺本について、概略を述べることとする。大楽寺は大分県宇佐市に所在する寺院であり、元弘3年(1333)、後醍醐天皇の勅願により、宇佐神宮大宮司・到津公連を開基に、奈良西大寺の道密を開山として招き、真言律宗寺院として創建された寺院である。寛政3年(1791)頃には古義真言宗に属し、現在は高野山金剛峯寺末の真言宗寺院として法灯― 18 ―― 18 ―

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