鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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㉖ 平福穗庵の研究研 究 者:秋田県立近代美術館 学芸主事  鈴 木   京はじめに平福穗庵(ひらふくすいあん・1844-1890)は角館(現・秋田県仙北市角館)に生まれた日本画家である。通称・順蔵、名は芸(うん)。初め、地元の四条派絵師・武村文海(1797-1863)に学び、京都・北海道を歴遊し、明治19年(1886)から4年間上京し活動するも病を得て帰国。第3回内国勧業博覧会に代表作《乳虎図》〔図1〕を出品し二等妙技賞の高評価を得たのを最後に、46歳で没した。寺崎廣業(1866-1919)に上京を促したことや、平福百穗(1877-1933)の父としても知られる。穗庵の作品については柴田是真(1807-1891)や小堀鞆音(1864-1931)らが驚嘆した逸話(注1)が伝えられており、生前から東京画壇でも注目されたといわれる。美術史の系譜の中に穗庵をとらえた初期の文献としては、瀧精一(1873-1945)による『日本美術史(下)』(大正9年)があり、明治時代の著名画家として、菊池容齋や柴田是真らとともに穗庵の名前が列挙され、ここでも穗庵の活躍は確かに認められている。しかし、明治初期の東京画壇で活動した画家の一人として、なぜ上京に到り、どのように活動し評価されていたのかについては不明な点も多く、この時期の画家の動きを知るうえでも、穗庵の上京中の動向は検討すべき課題の一つと考える。百穗の言によれば、生家には画譜類や日記帖などが多々残されていたという(注2)が、それらが火災によって焼失してのちは、没後発表されていた伊藤耕餘(1860-1933)の「畫人穗庵翁小傳」(注3)、政治家であり文人の野口勝一(1848-1905)の「平福穗菴傳」(注4)(共に明治24年)など、穗庵の知己による記述が伝記・研究書の底本として受け継がれ、今日の穗庵像を形成することとなった。本調査では、先行研究をふまえ基礎的な事績の再調査や年譜の補遺などを行ったが、本稿では特に上京中の活動に注目し、同時代の人間関係や動向の中にその活動を捉えなおしてみたい。なお今回は、穗庵と息子の恒蔵(穗庵の長男・百穗の兄)から角館の旧家・河原田家に宛てた、明治19~22年までの書簡27通〔表1〕も参照した。河原田家は角館で士分を拝領していた角館随一の儒家で、家塾を運営していた次功(号麓園・1815-1888)、次亮(号東里・1854-1902)父子に、穗庵は上京以前から経済的支援を受けていた。なお、穗庵自身は町人の出自でありながら、角館出身の儒者・森田珉岑(1792-1866)にその才を見出され、久保田の私塾に学んでいることもここで言い添えておく。― 274 ―― 274 ―

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