鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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第1章 上京の経緯―中央画壇との結びつき上京中の活動を語るにあたり、上京以前の活動や評価について確認する。1-1.上京以前の評価6年間(1860~1866)の京都遊学を終えた穗庵は、支援者を得て制作を続けていた。初期の大作《賀茂競馬図》〔図2〕《嵐山》〔図3〕(共に明治3年)では、嵐山の景観を円山四条派の描法で、その裏面に賀茂の神事を濃彩で描いている。他にも、文久2年(1862)以前に手掛けたと思われる幟旗〔図4〕や、医師の注文に応じ陰影を以て立体的に表した《骸骨図》(明治9年)〔図5〕、絵馬など、時代性を反映するような多様な媒体による初期作品群からは、絵師的な性質と達者な技量が垣間見える。依頼画を手掛ける一方、穗庵は公募展にも出品し、第3回秋田県勧業博覧会(明治13年)に《乞食図》で一等賞、全国規模の第1・2回内国絵画共進会(明治15・17年)に《乞食図》〔図6〕(注5)・《北海道土人之図》(出品名ママ)をそれぞれ出品しどちらも褒状を受賞した。《乞食図》の評価を受けてか、龍池会の委嘱で第2回パリ日本美術縦覧会(明治17年)にも《岩に鷲》を出品したとされる(注6)。《乞食図》は殖産興業の時流に沿ったテーマではないが、新聞紙上では実像を描き得る実力が評価されており(注7)、当時の作家に期待された部分がうかがわれる。内国絵画共進会の出品は県庁を通じて集約された。この点は、秋田県勧業博覧会で受賞していた実績とあわせて、平福穗庵という画家が公的に認識されるうえで大きな要素になったと思われる。また、明治17年(1884)に秋田県勧業課が画工や篤志者を募り絵画振興のために「傳神畫会」を設立した際には、穗庵も会のため後述のように尽力したと考えられる(注8)。以上から、上京以前の穗庵が秋田の絵画界を支える存在となっていたことは明らかである。1-2.東洋絵画会への加入と上京依頼次に上京時の様子を確認したい。明治19年(1886)のものと推定される書簡3には、穗庵が秋田市の後援者・那波家に寄寓していた折、県庁の職員の来訪があり、「東洋会」に併設される絵画共進会のため上京するよう依頼され、手当も給付されたことが記されている。「東洋会」とは東洋絵画会(明治17年設立)を指す。同会は、画家たちによって結成された団体で、本邦美術を発揚することを目的に、春秋の二回の展覧会の催行と、― 275 ―― 275 ―

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