機関紙『東洋絵画叢誌』(明治17~19年、明治20年に『絵画叢誌』に改題)発行を主な活動とし、この雑誌で得た利益等で画学校設立を企図していた(注9)。穗庵は共進会出品作などが評価され、幸野楳嶺、久保田米僊、小林永濯らとともに明治18年に学術委員に選任されており(注10)、上京以前から同会と関連があった。先の傳神畫會は東洋絵画会に類似した機構を持ち、明治18年に大会を開催する際には東洋絵画会に品評を依頼している。既に学術委員となっていた穗庵がパイプ役となって、畫會構築に貢献したものと推測できる。この東洋絵画会が内国絵画共進会を実質的に請け負って開催した東洋絵画共進会(明治19年)への協力こそが、上京の当初の主目的だった。この役目を与えられた背景には、前述のような県内での公的評価の高さと、同会会員としての実績があったと考えられる。穗庵は秋田の画道振興のために上京の依頼を受けたとしており(書簡3)、ここに穗庵の社会的な意識がうかがえる。県庁からの経済的な支援は一時的なものだったようだが、東京でも秋田の画家として名を挙げようと、本格的に東京画壇で活動する決意を固めていることが読みとれる(書簡4)。第2章 上京中の動向管見の資料から、東京滞在中の穗庵が展開していた制作活動をまとめると、展覧会への本画制作と発表、挿絵、書画会への参加、依頼画制作に分けられる〔表2〕。全体を俯瞰すると、意外にも展覧会や本画制作に関する情報は少ない印象を受ける。明治20年以降には刊行物の挿絵が増え、『絵画叢誌』や尾崎紅葉らが設立した硯友社の小説『文庫』(注11)や幸田露伴の『風流佛』にも挿絵〔図7〕を描いている。〔図7〕は渡辺省亭に続き裸体画をモチーフにして物議をかもしたことでも知られる。のちに石井柏亭(注12)や鏑木清方(注13)が穗庵について、穗庵の本画よりも挿絵を回顧しているが、これらの挿絵の仕事の多さを見れば頷ける。以下に、東京滞在期の動向と特徴をまとめる。2-1.本画作品―画題や需要、評価、表現作品発表の場としては依頼画や書画会での制作が多い。上京以前と比較すると、画題としては、中国文学や故事に則った作品、次いで花鳥画の割合が増加している。数少ない展覧会出品作の《韓世忠》〔図8〕(明治19年、東洋絵画共進会出品)、《黄初平》(明治21年、東洋絵画会常置展覧会出品)も、中国故事・伝説を主題とする。特に《韓世忠》は手本となる作例が少なく、中国故事の知識と深い理解を要求される― 276 ―― 276 ―
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