画題であることを同時代の文人が認めており(注14)、穗庵の漢学の教養の深さと、交友関係や顧客に明治期の知識階級が多くいたことを思わせる。藩中枢の漢学者・大縄織衛(1812-1882)に着賛を受けた明治2年の《陶淵明・林和靖》は、穗庵が早くから秋田の漢学者たちと交流していたことを示すものであろう。上京後に、佐竹家第13代当主・佐竹義生(1867-1915)やその家令たち、秋田出身の漢学者・根本通明(1822-1906)(注15)らの目前で席上画を揮毫している(書簡4)ことからも、その顧客層が想定できる。佐竹家からは上京中幾度も招集があり、その度に揮毫や所蔵品の虫干し、話の相手などを命じられているほか、佐竹の下県にあたっては角館総代の河原田との連絡役までも担っていた(書簡16~19)。教養をベースとした穗庵の人脈と役割は画業にとどまらない多彩なもので、ここに彼の活動の特徴が表れている。《韓世忠》は東洋絵画共進会で一等という好成績をおさめ、宮内庁買い上げとなっている(書簡4)。受賞後には会場で大庭学僊(1820-1899)や川邊御楯(1838-1905)らとともに席上揮毫を行い、早々に同会内で存在感を発揮した(注16)。また、東洋絵画会常置展覧会出品作《黄初平》は、荒木寛畝の雉子、松本楓湖(1840-1923)の桜、跡見玉枝の鯉などと同様に諸新聞で好評とされ(注17)、府下の実力ある画家として、十分な評価を受けていたと見なせよう。本画ではないが、柴田是真、松本楓湖、川端玉章(1842-1913)らとともに揮毫した新聞の付録「探花の図」(注18)も残っており、これも人気と実力を反映した人選と考えられる。上京中に制作された作品の表現を見ると、《韓世忠》、《黄初平》など故事人物図の場合は、人物の姿形には四条派風の筆法を踏襲しながらも陰影を意識した隈取を肉身部分に施している。《黄初平》(部分)〔図9〕では、人物の相貌表現に隈取りとハイライトによる陰影表現が見られ、肉体のもつ柔らかな量感が表現されている。人物をとりまく景観には薄い色彩を幾重にも重ねて深みを出し、四条派風の片ぼかしや没骨風の柔らかい暈かしを取り入れて奥行きや空気を描こうとしている。帰郷後の作になるが、中国秦代末期の隠士を描く故事画題《商山四皓》(明治23年、部分)〔図10〕では、陰影や暈しの手法が行き渡り、立体感や奥行きのある画面を創り出すことに成功している。生物の写実描写も上京後に発展した部分で、《瑞鶴游雛》(明治20年、部分)〔図11〕は、鶴の頭部に《乳虎図》〔図1〕に通ずる写実性の高さが見られる好例である。穗庵自身は写生の重要性と、写生に偏ることなく写生と非写生の間にあって「神」を求めて努力する重要さを門生に説いている(注19)。伝統的画題をより迫真的に描こうとする試みが上京後の作品には表れており、庚寅の年(明治23年)を意識して描いたと思われる《乳虎図》はその最たる例と考える。― 277 ―― 277 ―
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