鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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2-2.挿絵―『絵画叢誌』・東陽堂と穗庵穗庵の挿絵の仕事については2章の冒頭でふれたが、ここでは上京後の主たる仕事とされてきた『絵画叢誌』と、発行所の東陽堂、穗庵との関連を確認したい。同誌は、明治20年、会員による縮図や記事を掲載した『東洋絵画叢誌』の後継機関紙として発行された。穗庵筆と明瞭に認められる縮図は10図で、中には応挙や文晁など古画の縮図のほか、穗庵自身の新作の縮図が含まれ、古画の縮図のみが仕事だったわけではない。明治21年8月の書簡17からは、荒木寛畝、川端玉章と穗庵の三名が、同誌絵画の部の担当(挿画の選択から体裁までを手がける役割)となり、同誌編集に直接的に携わっていたことが確認できる。この書簡と同時期に発行された同誌17巻では、発行所が初期の「東洋絵画会叢誌部」から「東洋絵画会事務所」に変わっており、同会内部での叢誌の扱いと人員に再編が行われたものと思われる。この発行所の所在地となっていたのが東陽堂である。東陽堂は米沢出身の実業家、吾妻健三郎(1856-1912)が独自開発した印刷技術をもって開業した企業で、吾妻自身も東洋絵画会の会員だった。『東洋絵画叢誌』時代には複数いた縮図印刷業者の一人であったが、明治19~20年の同会の組織改良の折に幹事となり、東陽堂を事務所に定め会務に尽力(注20)している。明治21年以降は東洋絵画会の展覧会を東陽堂社内で開催するなど、『絵画叢誌』の発行以外の会の活動にも大きく関与。徐々に東洋絵画会を東陽堂の中に吸収しつつあったのではと思わせるほどの役割を果たしている。吾妻は東洋絵画会の人脈を活かして関係者を著者に迎え、東陽堂から書籍を刊行していた。明治22年発行の『風俗画報』を吾妻が発案・創刊し、会員に挿絵担当を依頼したように、同年発行の文人・石川鴻斎(1833-1918)の漢文怪奇小説『夜窓鬼談(上)』の出版も同会内人脈を駆使して主導したものと考えられ、穗庵、松本楓湖、小林永濯が挿絵画家に選ばれている。穗庵は、『絵画叢誌』や『文庫』など他雑誌で挿図を描き慣れていたことに加え、小説の内容に応じた教養をもち、ウィットに富んだ軽快な絵も描くことができ、適任だったと思われる。『風俗画報』(第10号、明治22年11月)には、担当外にもかかわらず穗庵の「アイノ人住居の圖」が掲載されており、これも穗庵の経歴を知って、吾妻が依頼したものだろう。『絵画叢誌』や『風俗画報』では東陽堂近刊紹介の場が設けられ『夜窓鬼談』の宣伝を展開、穗庵の名を記した広告も度々掲載された。また、穗庵没後も、彼が手がけた書籍の広告のほか、作品縮図が掲載されることもあった。吾妻の経営手腕によって、『絵画叢誌』および東陽堂関連の書籍で掲載された穗庵の縮図・挿絵は広く周知され、― 278 ―― 278 ―

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