それによって本画を公開する機会の少なかった彼の画名が一般に宣伝されることとなったと思われる。2-3.画家たちとの交流と「日本絵事協会」の結成書簡では、上京後に早速松本楓湖、川端玉章らと交流していることを知らせており(書簡4)、穗庵の交流が東洋絵画会を通して広がった様子が確認できる。『絵画叢誌』編集人を務めた文人画家・菅原白龍(1833-1898)については画よりも画論が卓絶(書簡5)とし、友人ではあってもシビアに評価しているところが興味深い。穗庵の作品を評価したとされる柴田是真についても、是真の門弟が上京後わずか3カ月の穗庵を訪れ人物画の依頼を行っていることや、是真所蔵の李龍眠筆《十六羅漢図》を穗庵が預かるなど、直接的な交流の様子がうかがえる(書簡5・9)。この十六羅漢図はもと東福寺の所蔵で、是真が長年入手を念願した大切な作品であったといい(注21)、この逸話は両者の親しい関係性を示唆していよう。松本楓湖とも東洋絵画会への所属と『絵画叢誌』編集が縁となり、逝去まで懇意な関係が続いた(注22)。また、管見の書簡には名前は見られなかったが楓湖と同門の渡辺省亭(1851-1918)も穗庵を友人と称していたことが知られる(注23)。以上の画家たちはみな東洋絵画会の学術委員や協議員を担い、会の中枢に位置していた人々であり、同時代画家たちの中で穗庵が作家として認められ、交流をもっていた様子が確認できる。穗庵が拠り所とした東洋絵画会は、前述のように明治21年前後から、全国規模の絵画共進会を開いた流派横断的な美術団体にしては矮小化を感じさせる動きを見せている。同時代の他団体としては、龍池会が改称した日本美術協会(明治20年)があったが、同会に対して穗庵は楓湖と共に距離を置いていた(書簡18)。一方、「日本絵事協会」(注24)という新団体の創立には、ともに発起賛成員として携わっていた。明治22年設立のこの団体は、月一回の『集古画譜』の発刊、年二回の絵画共進会の開催、絵画陳列所・絵画講習所設置を企図するなど、性質は東洋絵画会に近く、発起賛成員も東洋絵画会の協議員メンバーと重複している(注25)。弱体化してゆく東洋絵画会を立て直すため、同会の有志が立ち上げた会だったとも筆者は想像しているが、既に展覧会事業は日本美術協会や日本青年絵画協会が、絵画教授事業は東京美術学校や個々の画家たちが有していた画塾がその役割を担い、発起賛成員も各々他の団体に所属するようになっていた。会としての独自性を発揮できないまま、存続の意義が薄れ、散会したのではないだろうか。― 279 ―― 279 ―
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