注⑴ 金井紫雲「還暦の鞆音翁」(『中央美術』2月号、1925年、p. 53)および金原省吾「穗庵百穗作〔謝辞〕本稿では関係各位にご厚意を賜り、特に角館町平福記念美術館の中田達男氏、小松亜希子氏には数々のご教示を賜った。また、本稿で扱った書簡については、故・太田和夫氏が研究を進めていたことを記載し、深く敬意と謝意を表したい。⑵ 坂井犀水「新時代の作家(五)平福百穗氏」『美術新報』第11巻第8号、1912年、p. 2-6絵事協会の設立と同じ頃、穗庵のもとには、秋田から上京した廣業を含む若者や、関東近隣から通学する門下生が集っていた。あわせて、画家同士の交流の様子や、団体の創設に携わる様子などをみても、穗庵は画家としてまさに社会的に自立しかけた時期だったといえ、体調不良により帰郷を余儀なくされたことは誠に惜しい事態であった。おわりに上京前後から東京滞在中の穗庵の活動、評価形成、交友について検討した。穗庵の画業の背景には、東洋絵画会の存在とともに、漢学者ら明治の知識階級の存在があり、それらのコミュニティに支えられながら、上京中の活動が展開していった。上京後は、画家内での評価を受けながらも、内国絵画共進会のような大規模な公募展への出品の機会が限られていたため、一般には『絵画叢誌』などの挿絵によって穗庵の存在が広く知られるようになったものと思われる。穗庵自身を知る世代が明治中期以降に世を去ったことで、明治前期の日本画壇を構成する1ピースとしての穗庵の存在は忘れ去られていった。しかし昭和に入り、百穗と角館出身の美術評論家・田口掬汀(1875-1943)らによって、穗庵の作品の掘り起こしがなされていく。百穗は父の思い出を美術雑誌に寄稿し、「明治大正名作展覽會」(昭和2年、朝日新聞社主催)での代表作展示に助力したと思われ、田口は「穗庵百穗作品展覽會」(昭和10年、中央美術會主催)の開催や大型画集『平福穗庵画集』(田口編、狩野亨吉序、日本美術学院、昭和10年)の刊行で、穗庵の評価向上に貢献した。以上のような再評価が、百穗をはじめ美術に携わる同郷の人々によってなされたことは、秋田の画道興隆を目指して上京した穗庵にとって、望外の喜びとなったことだろう。品展覽會」(『中央美術』第28号、1935年、p.6)― 280 ―― 280 ―
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