(二)住吉派の誕生玉鬘 178 こと〳〵しくさきなをひそと箋秘云同家の中ナレハ也 箋曰玉かつらへハ下ニにほふ心アル故ニこなたに刻ヲウツシ給事ヲ人しれすとおほすなるへし玉鬘 202 おやときこえなからかくふところはなれす物ちかゝるへきほとかは・(必)夕霧の不審し給ふなり箋箋曰父母4兄弟ニ遠トコソ云ヲイカナレは・(イ)アヤシク見給ふ4也玉鬘 204 さすかにいとなこやかなるさまして・(聞)玉かつらのむつかしくは思ひなからさすかつんと隔心にはなき躰と見る也以上のことは、『岷江入楚』においても、源氏の下心と夕霧のそれを不審に思う様子、そして玉鬘の嫌だと感じているが素振りに見せまいとする様子として指摘される。源氏は、これらに気づかぬままに、一方で夕霧と読者は、早くもこの関係が成就しないことを悟った状態で物語は進行するのである。光則と同時代にある注釈と光則の『源氏物語』解釈の一致によって、光則がこれらの注釈に動かされ、定型とは別の場面として〈再発掘〉した図様を用いた可能性が示唆されよう。住吉を名乗る以前、土佐派に属していた頃の如慶をはじめ、同時代の絵師たちの多くが光則の〈新しい源氏絵〉の洗礼を受けていたことは間違いない。近年、下原美保氏(注4)の研究を中心に、住吉派研究は進展を見せ、また、大阪市立美術館にて行われた「特別陳列 土佐光起 生誕400年 近世やまと絵の開花―和のエレガンス―」展(注5)においても、今まで土佐派研究の中心であった光信・光吉に加え、その継承者である光起に焦点が当てられたように、17世紀土佐派周辺の動向に注目が集まっている。光吉の集大成である土佐派伝統図様と光則の再発掘図様の両方を学び取った如慶の源氏絵にまつわる画業に焦点を当て、住吉派の誕生という視点から、17世紀の光則を起点として展開する諸派の源氏絵制作を紐解きたい。まずは、住吉如慶の画業を土佐派から住吉派へという流れの中で捉えなおす。如慶は、その画業を土佐派においてスタートさせる。光吉、光則に学び、土佐広通として長らく土佐派の絵師として活躍の場を広げていた。寛永2年(1625)[当時26歳]、幕府からの注文であった《東照宮縁起絵巻》制作のため堺から関東へ下り、承応3年(1654)[当時55歳]には、内裏造営に伴う障壁画制作に狩野派らの絵師とともに参加― 289 ―― 289 ―
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