㉘ 琉りゅう球きゅう紅びんがた型踊おどり衣い裳しょうの研究─オーラル・ヒストリーにみる近現代沖縄芸能家の思いと表象─研 究 者: 元 ドナルド・キーン・センター柏崎 学芸員 沖縄国際大学 南島文化研究所 特別研究員 文化学園大学 文化ファッション研究機構 共同研究員一.はじめに ―琉球芸能と紅型踊衣裳―本研究は、主としてオーラル・ヒストリーの手法を用いて、第二次大戦地上戦後の琉球紅びんがた型史・琉球舞踊史を構築する沖縄の紅型師(国指定重要無形文化財保持者、沖縄県指定無形文化財保持者)・舞踊家(国指定重要無形文化財保持者/各個・総合認定)の聞き取り調査を行い、染織史・芸能史・文化史という民族芸術学的関連のなかから、紅型踊衣裳に込められた思想、衣裳に象徴される戦後沖縄文化の深層を明らかにしようと試みるものである。琉球舞踊は琉球王国滅亡から廃藩置県、沖縄県設置を経て平成期の現代に至るまで、大別三系統に分かれ成立発展を見た。すなわち、王朝時代「御う冠かん船しん踊うどぅい」の系譜をひく「古典舞踊」、明治期以降の芝居小屋上演を目的に主に旧士族出身の舞踊家たちが創作した「雑ぞう踊」、第二次大戦後の「創作舞踊」である。このうち古典舞踊は、老人踊、若わか衆しゅう踊、女踊、二才踊、打組踊である。庶民の風俗様相の表現に主眼を置き主に芭蕉布や琉りゅう球きゅう絣がすりを着ける雑踊、黒紋付袷衣裳を着ける二にぃせぇ才踊などに対し、琉球紅型を着けるものは、玉たま城ぐしぃく朝ちょう薫くん作と伝わる女七踊を含む古典女踊十三曲である。しかし、この紅型衣裳の着用は、古典女踊の成立当初から行われたものではない。王朝最末期の様相は不明だが、琉球王国時代、女踊の踊衣裳の主流は「琉縫薄衣裳」であった。天保三年(1832)『琉球人坐楽之圖』(永青文庫蔵)には、里さとぅぬし乃子らが女躍り「團扇躍、笠躍、四つ竹躍、柳躍」を浅地に朱の襟、朱の裏地の衣裳〔図1〕で踊る姿が描かれ、紅型らしき踊衣裳(黄色地)が絵画に登場するのは明治期である(『沖縄風俗絵巻』、熊本大学付属図書館蔵)。また、楽がく童どう子じや御冠船踊の衣裳と伝承される王朝時代の紅型は、「木綿白地鳥流水蛇籠葵菖蒲文様衣裳」(沖縄県立博物館・美術館蔵)や鎌倉芳太郎の記録(注1)など、すべて白地である。恐らく白地の選択は、王国時代に黄色地の紅型が最も高位の地色とされた社会的背景に起因するものであろう。少なくとも、黄色地の紅型踊衣裳の登場は、王国崩壊後と推測できるのである。国王尚しょう家け一族もすでに紅型を着用する機会のほとんど無い明治大正期、紅型は芸能― 297 ―― 297 ― 児 玉 絵里子
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