鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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【玉たま那なは覇道みち子こ(1937- )】 沖縄県指定無形文化財「びん型」保持者 〔図2〕衣裳に用いられた(注2、3)。ではなぜ古典舞踊において、古典女踊に限定して紅型の衣裳が、踊衣裳としての発展をみたのであろうか。紅型は、第二尚氏時代18世紀には確立された王国独自の染め技である。王国時代、紅型は国王尚家一族ほか限られた者にのみ着用の許された権力の一表象で、社会的階層により身に着けてよい模様の大きさや色が細かく定められた。従って、近代における古典女踊に限定された紅型衣裳の採用には、何らかの深層心理や思想的、文化的背景が存在すると推測できるのである。これまで助成者の取組みを除き、沖縄の舞踊家が所蔵する紅型踊衣裳の総合的調査は行われていない(注4)。その背景には、衣裳が部外者の介入しがたい伝統的分野の個人所蔵物で、琉球芸能が多様な人間関係を構成する状況もある。一方、紅型についての研究は、従来、伝世品における模様の分類や意匠の考察、材料・材質、技法の解明を中心として進められてきた(注5)。しかし、芸と装束は不可分で、芸能衣裳研究は芸の本質を考察するうえでも重要である。衣裳、すなわち「物」を取り巻く生身のオーラル・ヒストリーから、時の経過とともに失われる「時代の意識」と思いが明らかになるはずである(※以下、文中敬称略)。二.戦後沖縄芸能家・紅型師の、オーラル・ヒストリーと紅型踊衣裳下記の調査対象者は、いずれも初めて個人的内情を伝えるものである。調査から、第二次大戦地上戦(沖縄戦)の後、過酷な状況下に、紅型師や舞踊家が琉球舞踊や紅型に「沖縄の象徴、沖縄のこころ」を見出し、民族芸術として自己のアイデンティティーを重ねていった姿が明らかとなった。中には、青年期に内ない地ちで県出身者であることを揶揄され、「大やまと和(日本)」あるいは海外の芸能に対峙する独自の優れた文化として、琉球舞踊を強く意識した経緯を、語られた方もいた。口述資料は、戦後沖縄という地理的・時代的状況下での心と取組みを浮き彫りにする。(※字数の制約から、調査実施の舞踊家の一部のみ、下記に取り上げる。)「16・17歳までは父(城しろ間ま栄えい喜き⦅1908~1992⦆、沖縄県指定無形文化財「びん型」保持者)と2人。ごはん炊いたり、一緒に食べたり、型置き習ったり。首里高校の末すえ吉よし安あん久きゅう先生(画家)、森もり田た永えいきち吉先生(画家)が父から習っていたけれど、型置きは自分がやった。絵と染めは違うみたいで、途中から、『えー、道子やれ』って言われた。子どもだから、ずっとやってた。名な渡ど山やま(愛あい順じゅん)先生の奥さん(千鶴子)、藤村(玲― 298 ―― 298 ―

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