子)先生は、(自分が始めた)後から。藤村先生は森田先生が連れてきた。(子供なので)眠りたいときは寝転んで、(工房の仕事を)やっていた。時々首里高に行ったり、時間あるときは型置きしたり、夜は(先生方が)酒飲んで、自分(道子)がおから作ったり。(栄喜に対しては)何かいったら怒られるかもしれないって、あまり口答えもしない。娯楽がないから、首里劇場へたまに叔母さんが連れ出してくれて、お風呂に行って帰りにぜんざい食べたり、おそば食べたり、それが楽しかったかな。子どもの頃の楽しかったことはなかったんじゃないかな。戦争のことは覚えてないんだけど、お母さん(戦死)の話は(辛くて)できない。(享年)36か37歳くらいだった。弟(5歳)は逃げ回っていたときに、私のそばで叔父、わたし、弟が寝ているとき、翌朝死んでいた。お母さんがいたら、もっと違った人生だったんじゃないか、って今でも思う。…」(※「 」中( )は筆者補足。以下、同様)沖縄では毎夏、応募制の芸能審査会(沖縄タイムス社「沖縄タイムス芸術選奨」、琉球新報社「琉球古典芸能コンクール」)が開催される。戦前は多くが黄色地であった古典舞踊の紅型踊衣裳(注6)に対し、コンクールでは1954年の沖縄タイムス第1回新人芸能祭を機に、真ま境じき名な佳よし子こ(1919-2005)(注7)、城間栄喜、豊とよ平ひら良りょう顕けん、画家 末吉安久・玉那覇正吉らが、いちはやく紅型踊衣裳の地色と模様を定めた(注8)〔図3〕。「髪形・着物の色合い・着付けの方法という点からみて、タイムス系の初期の審査員に、南はえばる風原朝ちょう光こう、末吉安久や大おおみね嶺政せいかん寛ら本物の色を知っている画家たちがいたことは大きかった。選考委員として係わり、舞踊家とともに化粧も創り上げた。『あんたの踊りはこんなした方がいい』と助言もくれた。…「沖縄の色彩感覚」が大切だ。古いもの(紅型)を沢山見ること。」(喜き舎しゃ場ば盛もりかつ勝(1932- ) 談)(注9)。【宮城幸ゆき子こ(1933- )】国指定重要無形文化財「琉球舞踊」総合認定保持者:師の佳子とともに戦後最初に紅型工房に行ったのは、「稲まづん」の衣裳のためであった。栄喜が染めた反物を師から譲り受け、着物から帯に作り替え60年ほどになる。「踊りはわたしの生きがいだ。踊りがあったから今の自分が在る。」「技だけではない、沖縄の気、沖縄の心(注10)と魂が、沖縄の踊りには入っている。戦後の苦しい時期を乗り越えた先達の、培ってきたものを、次の世代に残していけるように」。「出羽で立って歌が出るまでが全て。基本的な歩みがきれいだと全体もきれいになる」。90分の稽古であれば30~40分を歩みの稽古に費やす。師の佳子は常に語った、「理屈ではないよ。身体で覚えなさい」。どこが軸か身体で体得する。立つ姿勢、下腹とどこに力を入れるか。身体の芯、柱を作ること。「歌三線を聞きなさいよ」。師は意図的な心情表現や大げさな振りを嫌い、自然体の動きを求めた。「体の線の美しさ」である。自身は元来、― 299 ―― 299 ―
元のページ ../index.html#309