鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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た、福岡県みやこ町峯高寺の当麻曼荼羅図が最も古く、また宝永6年(1709)の地蔵院本が下限であるため、江戸時代前期17世紀末から18世紀初頭と推定される。Bグループ・Cグループの模本は、画面も縦長となり、さらに大楽寺本に描かれない多数の動物が描きこまれるなど、大楽寺本を基準としながらも様々なアレンジが加えられているが、この洞昌寺本のみは、わずかに1匹の動物を増やすのみで、独自の要素がほとんど含まれない。Aグループ洞昌寺本は、大楽寺本を忠実に写した「写本」ともいうべきもので、模本の中でも、大楽寺本を直接写して製作された可能性が極めて高いものである。Bグループ萬弘寺本と円福寺本〔図3、4〕は、大楽寺本と比べると、縦長の画面となっているためか、岸部からのぞく跋堤河の幅が大きくなり、会衆と動物たちの間に距離が開き、自然景・釈迦と会衆・動物という区画が明確となっている。また、萬弘寺本と円福寺本はほぼ同寸であり、海北姓絵師たちが、涅槃図を掛ける寺院の規模に合わせ、いくつか涅槃図のパターンを作成していたことがうかがえる。なお、萬弘寺本には、動物たちの配置や描写にやや不自然なものが含まれる〔図5〕。本来正方形に近い画面構成の大楽寺本を縦長の構成に描き直した際に、動物の配置を誤ったかのようである。また、海北姓絵師の仏涅槃図には、大楽寺本に描かれない動物として、多く蓑虫が確認され、円福寺本とCグループの全ての模本に描かれるが、萬弘寺本には蓑虫が描かれない〔図6〕。以上の点から、萬弘寺本は、海北姓絵師たちが模本の様式を完全に確立する以前の作例であろうと考えられる。円福寺本は萬弘寺本と同様の画面構成ながら、写し崩れが見られず、動物たちの配置も整然としており、海北姓絵師たちが、模本の様式を確立して以後の作例と考えられる。Cグループの模本は、Bグループと同じく縦長の画面構成をもつが、Bグループに比べ大型のものが多く、そのため動物の数も格段に増え、さらに画面上部にも雲が細かく描き込まれる。大型の画面を活かすべく、描き込みを密にしていったのであろう。このCグループの中でも、地蔵院本と大雄寺本はともに絹本着色であることが注目される。模本はそのほとんどが紙本着色であるが、地蔵院本と大雄寺本のみ絹本である。また、両者は動物の配置、着衣の彩色と文様など、細部の表現が共通する。特に釈迦の着衣に関しては、薄桃色の袈裟で、田相に唐草繋ぎ文。条葉に格子文。裏地は青に、網目紋。裳は茶色がかった緑青に麻葉繋ぎ文。裳裾が緑青に唐草繋ぎ文という装飾が完全に一致する〔図7、8〕。この描写は、大楽寺本とは大きく異なるものである。大楽寺本は釈迦の袈裟が赤色で表され、裏地は青、裳は緑青。袈裟には金泥で団花文に唐草繋ぎ文様が施される。模本も、基本的にはこの彩色および文様で描かれ― 21 ―― 21 ―

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