鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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「器用でぱっとできるタイプではない。努力しないと覚えられない」。琉舞との関わりは、「一段一段、階段を上っていくようなもの」で、「すっといけるときと、立ち止まるときもある」。舞踊を通じて、戦後、沖縄戦で家族が皆死んでしまったと思い込み九州で靴作りの職人をしていた父を捜し出し、沖縄に連れ帰ることができた。米べい琉りゅう親善沖縄芸能団アメリカ公演では地元在住の古老(県出身女性)が涙を流し、琉舞を通じて沖縄の心を伝えていってほしいと激賞された。「踊りをやっているから、昔は士族しか着ることができなかった紅型を羽織ることができる」。栄喜の図案を玉たま那なは覇有ゆうこう公(1936- )(国指定重要無形文化財「紅型」保持者)が染めた踊衣裳を付ける。「どんなに高価でも一流の舞踊家は本物の紅型を身に付けて欲しい。特に古典は紅型があっての古典。紅型の色は、沖縄の空の色、海の色と調和している…明るいけれど渋さもある」(注11)。【真ま境じき名な律のりひろ弘(1953- )】国指定重要無形文化財「組踊」総合認定保持者:真ま境じき名な由ゆうこう康(1889-1982)、真ま境じき名な本ほん流りゅう家元 真境名由よし苗なえ(1930- )に師事。師の琉歌「能羽に優れても/高ぶるな朝夕/慎みの一字/胸に抱きよて」(真境名由康作)を重んじ、同門の妻 秀子(1951- )と共に「型」の継承に尽くしてきた。由康は常に、「仕事は何をしているのか。仕事を持って芸能に取り組みなさい」、「(衣裳は)自分で働いてあつらえなさい。(そうでないと)借り物の芸になる。」と語った(談 秀子)。入門当時、沖縄には芸能をやる者は遊んでいると思われる風潮があった。律弘は少年野球を経て空手の黒帯を取得、琉球大学に進学した後に琉大郷土芸能クラブに入部し、由康・由苗に師事した。秀子は県出身の父母が暮らした名古屋で生まれ、12歳で母を亡くした後に父と沖縄に戻り入門した。父は普ふ久く原はら朝ちょう喜きら沖縄民謡を愛し、名古屋での生活は常に沖縄文化で囲まれていた。由康を通じて幸こう地ち亀千代(野村流音楽協会会長、1903-1969)や登のぼり川かわ誠せいじん仁(琉球民謡登川流、琉球古典音楽湛たん水すい流りゅう師範、1932-2013)らを間近にし、夫婦の公演では、知ちな名定さだ男お(注12)、徳原清せいぶん文、松田末吉らに歌三線を依頼した。由康は「よー、うたちぃちょーやぁー(うたをよく聞きなさい)」、「古典をしっかり勉強しなさい。そうしたら自然にできる」と語った。「「風ふう」が大切。古典を鍛錬することで立ち居振る舞い、舞踊の美しさ、雰囲気が出てくる。余計なことは考えてはいけない」(律弘 談)〔図4〕。組踊を親おや泊どまり興こう照しょう(初代)(1897-1986)と由康に師事した二代目興照(久玄)(1939- )(注13)が、先代の教えを重んじ伝統的表現の中に個の創出を模索するように、由康・由苗芸の伝承を専一とする律弘・秀子も、踊衣裳は城間栄喜の型紙を用いた古典柄である。【谷田嘉よし子こ(1937- )】国指定重要無形文化財「琉球舞踊」総合認定保持者:日本水産― 300 ―― 300 ―

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