鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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に務める船乗りだった父は、台湾で那覇士族の血をひく母と結婚し、終戦を迎える頃に台湾で亡くなった。7歳の頃、母に連れられ台湾在住の舞踊家 大おおみね嶺朝ちょう章しょうを訪ね、3歳の妹 美枝子(金城)(注14)とともに稽古を始めた。その後渡った久米島では、美枝子が男役、女役を嘉子が務める久米島の男女打組踊「あかのひじぃみじ」(ひじぃみじは髭の意。男役が「ゆいさーゆぃ」と囃子言葉をかける。)が評判となり、那覇に転居後、玉城流玉たま城ぐしぃく盛せい義ぎ(1889-1971)に師事した。学校から帰ると必ず「お稽古行ったね」と問うほど母は琉球芸能が好きで、踊りを続けた理由の一つは母を想ってであった。母が若い頃は女性が琉舞を習うことに偏見があり、入門を断念したからである。伊舎堂正子から「クーチーモーイ―」(間まのとり方。こなし)の伝授も受け、美枝子との掛合いで傑出する「加那よー天川」ほか舞台では男役も多いが、最も好きなのは女踊である。栄喜の創作柄と古典柄を、伊野波節・諸屯〔図5〕、本むとぅ花はな風ふぅ〔図6〕などで着ける。紅型を選ぶ際には「色使い、琉球の匂い」を大切にする。【宮みや城ぎ能のうほう鳳〔1938- 〕 】国指定重要無形文化財「組踊立方」保持者、同「琉球舞踊」総合認定保持者:若くして両親と姉を相次いで失った。芸能一筋に取組み、組踊立たちかた方として沖縄で初めて重要無形文化財保持者の各個認定を受けた。戦後踊衣裳の典型「流水に桜蛇じゃ籠かご菖蒲鴛おしどり鴦模様」を玉那覇有公が地染めなしで八重山上布に染め、作田を舞った(2015年10月30日横浜能楽堂)。夏の踊りの作田のため、白地に朱色や黄色、玉那覇特有の桔梗やピンクである〔図7〕。名の「鳳」の一字に通じる鳳凰の模様が肩にあり、衣裳への思い入れはより深まった。「大先生の染められた紅型の工程の中で、作者のこころ、思いに重ね合わせ、いかに踊るか」。初期の紅型踊衣裳は白地が基本であったと推測されるが、白地に顔色が映え、舞踊全体が清楚で美しい印象となった。【玉たま城ぐしぃく節せつ子こ(1941- )】国指定重要無形文化財「琉球舞踊」総合認定保持者:地上戦で兄一人姉三人、学童疎開船対つしま馬丸まるで姉一人を失い、終戦後の那覇での生活が始まった。空手(剛ごう柔じゅう流りゅう)を嗜んだ父(警察官)は「自分の事を見せびらかすな。」、「生かされた命。芸道を究め、社会に還元できることをしなさい。」と語った。対馬丸記念会ほか各チャリティー公演にも多く出演する。「紅型を着けるときは常にときめきがあり、衣裳で踊りのなかの物語に入っていく」。県花 梯でい梧ごを染めた知ち念ねん貞さだ男お作「白地梯梧蝶模様紅型踊衣裳」は、県外公演で沖縄を紹介するため自身が創作した舞踊「でいごの花心」で着ける。現代の舞踊家でほぼ初めて、王朝時代「琉縫薄衣裳」を意識した金彩の紅型踊衣裳〔図8〕を制作した。― 301 ―― 301 ―

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