三.舞踊の生成過程と衣裳では古典女踊とは、そもそもどのような舞踊であるのか。古典舞踊の最高峰とされる七踊「綛かし掛かき、諸しゅどぅん屯、伊ぬ野ふ波ぁ節ぶし、作つぃく田てん、柳やなじ、天あまかぁ川、貫ぬち花ばな」(注15)のほか古典女踊は、神女(注16)〔図11〕に由来する「拝み手」、「押す手」、「こねり手」、あるいは『おもろそうし』にある体のこなし「なより」に繋がる所作があり、沖縄独自の舞踊に形作られていることが指摘されてきた(注17)。一方、古典舞踊でも二才踊は、最も本土芸能の影響を受けたと指摘される(注18)。従来、芸能研究において個々の古典舞踊がどのように生成されたか、芸態に特化した詳細な考察は行われていない。助成者は琉舞ほかの実演体験と美術史の研究方法を応用した芸げいたい態の比較対照研究により、具体的に二才踊の生成過程を考察した。すなわち、小こ歌うた踊おどり(国指定重要無形民俗文化財「綾あや子こ舞まい」/新潟県)と琉球舞踊の芸態比較対照研究から、小お原はら木ぎ踊おどり(小歌踊)・若衆特こ牛てぃ節ぶし(若衆踊)・上ぬぶいり口くどぅち説(二才踊)には、小歌踊と「沖縄の宮廷舞踊」に指摘されてきた「出んじふぁ羽・中なか踊うどぅい・入いり羽ふぁ」という構成上の共通点(注19)のほか、扇やふり、身体の動き、所作に極めて興味深い重要な共通性を指摘できることが明らかとなったのである(注20)。上り口説、若衆特牛節は、日本の芸能、なかでも古歌舞伎踊に由来し、その形式を色濃く遺した舞踊の可能性がある。また、古歌舞伎踊の形式をより色濃く残す若衆特牛節の成立の後、上り口説が制作された可能性を指摘できる(注21)。つまり、古典女踊と二才踊の生成過程と内容は、明らかに異なるのである。大和芸能の影響下に成立した二才踊は、今日も、黒紋付袷衣裳に角帯、白黒立縞の脚絆に白足袋である。それに対し古典女踊は紅型である。つまり踊衣裳には、継承された踊りの深層心理、すなわち、舞踊の成立過程との深い関連を推測できるのである。ではなぜ近代以降、古典女踊で紅型踊衣裳が確立をみたのか。そこには前章にあげた現代舞踊家の言葉、すなわち「沖縄の心」、王国に繋がる民族思想を読み解くことができるのである。琉球王尚家一族は、首里や久米島ほかで織られた御みえ絵図ず柄がら絣衣裳、首里士族女子にのみ伝えられた首里織、あるいは平民のものよりも上質な繊維で細く苧うまれた華やかな地色の芭蕉布も身に付けた。だが、近代に於ける「王家」の象徴とは「紅型」であった〔図12、13〕。近現代の一部の紅型衣裳の模様は、日本の歌舞伎衣裳ほか能装束、狂言衣裳などを意識している〔図14〕。沖縄の織物は抽象的な絣文様が特色で、絵画的意匠を表現できる技法は紅型であった〔図15〕。王国崩壊後、紅型の衣裳は首里の御うどぅん殿殿どぅんち内から払い下げられ、神に奉納する芸能の踊衣裳に用いられた。一部は戦後、神かみ衣い裳しょうとして― 302 ―― 302 ―
元のページ ../index.html#312