注⑴尚裕、鎌倉芳太郎、山辺知之著 『琉球王家伝来衣裳』講談社、1972年⑵王朝末期に首里で制作された芸能衣裳の一部は、明治初期に小禄御殿を通じて芝居小屋に渡り大正頃まで使用された。紅型を含む屋嘉の芸能衣裳は、王府や士族旧蔵の御殿下りである。(宜保栄治郎「沖縄の芸能衣装」『風俗史学 13』、日本風俗史学会、2000年)【謝辞】御推薦を賜りました恩師 村重寧早稲田大学名誉教授、調査に御協力賜りました関係者の皆様に、深く御礼申し上げます。文中にお名前を挙げた方の他に、當間一郎、儀間義光、末吉正子、東江喜美、名嘉永和、名嘉ノブ子、濱里篤、濱里長希、宮城稔、安座間充、玉元孝治、仲宗根理沙、比嘉美好、比嘉司、瀬嵩弘美 (順不同、敬称略)崇められたが、「保管では意味がない。これを着け踊ることで価値がある。御冠船踊の衣裳だから」(元屋嘉区長 伊芸修 談)。村の祭祀では五穀豊穣をもたらす神 弥み勒るくが紅型を着け〔図16〕、村むら芝しばい居の組踊では、王府に仕えた若衆の姿を偲ばせる衣裳として若わか按あじ司が着け、そして、「民族の象徴」として琉球舞踊の古典女踊で用いられた。2004年藤村玲子は助成者に、工房で一枚の型紙を見せた。尚本家末裔から特別に譲り受けたと語った同型紙(病没前、那覇市歴史博物館に寄贈)の図案で、藤村は一般向けの反物ではなく紅型踊衣裳を染めたのである〔図17〕。四.おわりに紅型踊衣裳は、琉球舞踊の古典女踊で採択され近代に発展を遂げた。琉球舞踊において古典女踊とは沖縄文化の古こ層そうに繋がる舞踊であり、民族としての自覚(アイデンティティー)を促す表象的存在である。紅型踊衣裳は第二次大戦後、古典女踊の踊衣裳として確立されたが、これは沖縄の独自性を確認しようとする「近現代期の特質」に他ならない。紅型踊衣裳とはすなわち、琉球王国に系譜する民族の表象なのである。この様相が今後どうなっていくのか、それは、沖縄という地域におけるひとつの民族芸術の展開として、そして、紅型と琉球舞踊の芸術性において、実に興味深い問題と言える。⑶金武町指定文化財 「花色地霞に枝垂れ桜短冊雲形梅籬菊推薦模様紅型衣裳」 ほか。⑷流会派を越えた初の踊衣裳展が2016年那覇市伝統工芸館で開催された。児玉の学術監修による。『那覇市伝統工芸ブランド確立事業「琉球舞踊衣裳展覧会」』2016年1月、那覇市主催⑸紅型近現代史を初めて明らかにした。児玉/学位論文「琉球紅型の研究」、早稲田大学、2009年、児玉/『琉球紅型』、㈱ADP、2012年 ※平成23年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)「学― 303 ―― 303 ―
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