㉙ 近代日本における裸婦像の変遷─官展を中心に─序【凡例】研 究 者:小杉放菴記念日光美術館 臨時学芸員 清 水 友 美引用文中の旧漢字は、全て新漢字に改めた。日本では、明治期より裸体画を猥褻物か否かを議論する「裸体画論争」が幾度となく勃発した。展覧会での裸体画の展示を巡っては、度々警察権力が介入し、画家たちは取り締まりを考慮しながら作品を制作してきた。近年、近代日本の裸婦像研究は活発に行われているものの、先行研究はいずれも特定の画家・作品に限定して論じており、通史的な研究が十分になされているとは言えない状況である(注1)。特に、黒田清輝が中心となって結成された白馬会や、官展に反発して結成された美術団体(以下、在野展)の作品に注目が集まっているのに対し、日本の洋画壇のメインストリームである官設展覧会(以下、官展)の裸婦像を扱った先行研究は極めて少ない。これまで筆者は、白馬会と日本初の官展である文部省美術展覧会(以下、文展)、そして、文展に反発した画家たちが結成した在野展である二科展の裸婦像を取り上げ、警察の取り締まりを視座に据えて考察を進めてきた(注2)。しかし、大正後期以降の裸婦像研究は概説的なものが多く、特に官展の裸婦像は、詳細な研究がほとんどなされていない状況である(注3)。さらには、官展においても裸婦像が取り締まられていたことについては、先行研究においてほとんど言及されていない。以上のことを踏まえると、大正後期以降にどのような裸婦像が制作され、どのような裸婦像が取り締まりの対象となり、また取り締まりが画家の制作態度にどのような影響を及ぼしたかについては、未開拓の研究分野なのである。そこで、本研究では、帝国美術院展覧会(以下、帝展)・昭和11年文展の裸婦像を取り上げ、当時行われた取り締まりを視座に据えることによって、官展の裸婦像の作風の変遷を探ることを目的とする。加えて、美術を奨励するはずの機関である官展が、取り締まりを行っていたという新たな問題点を提示したい。― 308 ―― 308 ―
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