鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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(1)帝展開催時の裸体画取り締まり日本初の文教政策の見地から設立された官展である文展は、明治40年(1907)に創設されたものの、回を重ねるごとに、審査制度において問題が頻発するようになった。大正3年(1914)の二科会結成に代表されるように、審査制度に不満を持った画家たちが、文展を脱退し、在野団体を結成するなど、次第にその求心力が落ちたことが問題視された。この解決を図るために、大正8年(1919)に設立されたのが、「帝国美術院」である。この帝国美術院は、文部大臣の管理下に置かれ、展覧会(帝展)開催を主な業務としていた。それでは、帝展開催時、裸婦像を取り巻く状況はどのようなものだったのだろうか。まず、大正8年(1919)の第1回展の裸婦の出品数は、わずか7点であったものの、回を重ねるごとに徐々に増加し、昭和4年(1929)の第10回展では、最多の50点を記録した。〔表1〕また、第12回展が開催された昭和6年(1931)には、藤島武二と岡田三郎助が監修し、太田三郎が編纂した『世界裸体美術全集』が、さらには第15回展が開催された昭和9年(1934)には同じく太田が著した『裸体の習俗とその芸術』がそれぞれ平凡社から刊行されるなど、多くの裸体に関する書籍がこの頃多く発行されたことは注目に値する(注4)。このように、帝展において裸婦像の出品数が増加したことと、裸婦に関する書籍が多く刊行されたことを踏まえれば、大正後期から昭和初期にかけて裸婦像を取り巻く状況が改善したかのように見える。しかしながら、帝展においても依然として裸婦像の取り締まりは行われていたのである。そこで本項では、帝展の取り締まりの状況を在野展と併せて考察する。まず、大正8年(1919)の第1回帝展に先立ち開催された、第16回太平洋画会展において、警視庁は油彩画8点と彫刻1点の写真撮影を禁じた(注5)。さらには、3月に開催された第7回光風会展においても、裸体画5点の撮影を禁じ、これと併せて警視庁は今後の裸体画取り締まりの基準として、これらの写真を保存したのである(注6)。このように、大正中期でも在野展を中心に警察による厳しい取り締まりが行われ、帝展においてもその影響があった。また、第1回帝展では、作品展示において取り締まりはなかったものの、文部省編集の受賞作以上を掲載する図録においても、全裸像は掲載しないという方針がとられていたことが、のちに明らかになった(注7)。続いて、翌年に開催された第2回帝展において、警視庁は、裸婦像7点を撮影禁止とした(注8)。この取り締まりの対象となったのは、有馬さとえ《髪》〔図1〕のように身支度をする裸婦を描いたものをはじめ、巖埼精起《裸婦》〔図2〕に代表される全裸像であった。― 309 ―― 309 ―

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