(4)海北姓絵師たちについてており、大楽寺本と明確に異なる着衣の釈迦を描くのは、地蔵院本と大雄寺本のみである。両者は、非常に近しい関係にあるといえるだろう。地蔵院と大雄寺は本末関係にあり、地蔵院は大雄寺第6代住持・天庵が寛文2年(1662)に創建した寺院である。これらのことから、両者の制作にあたっては特別の注文があったものと想像される。浄安寺本は模本の中で最も大きく、動物の数も88種と最も多い。描表装である点も注目される〔図9〕。円通寺本も現在一文字のみが描表装となっており、制作当初は描表装であった可能性も考えられる〔図10〕。浄安寺本や円通寺本ともにそれぞれのモチーフをバランスよく配置し、着衣の文様など細部まで丹念に描き込む。釈迦の着衣をはじめ、群衆たちの着衣の彩色や文様表現などは大楽寺本を極力忠実に写しながらも、若干のアレンジが加えられ、絵師の工夫を見ることが出来る。Cグループの中でも任聖寺本〔図11〕は、他の模本と異なり、紀儀実斉という絵師の作である。紀儀実斉がいかなる人物であるのか、現在の所他に作例が確認されておらず、文献史料にも見出せないため詳細を明らかにしえないが、おそらくは海北姓絵師たちと近しい関係にあった地元の絵師ではないかと考えられる。任聖寺本は海北姓絵師たちによる模本と比べると、細部表現や文様などにやや崩れている所があり、会衆たちの表情にも不自然な歪みが見られる。ただし、全体的な構成は海北姓絵師たちのものと共通しており、海北派絵師たちによる模本には多く登場する蓑虫もしっかりと描かれる。この蓑虫もやや写し崩れが目立つ〔図12〕。こうした特徴から、任聖寺本は大楽寺本を直接写したのではなく、先行する海北派絵師の作を写したものである可能性が高いといえよう。海北友倩・道利については、文献史料が残されず、豊前・豊後地方にのこされた仏画によってその事跡が確認されるのみである。海北友倩の手による制作年代の明らかな作例は、前述のとおり貞享元年(1684)に制作の始まった福岡県みやこ町峯高寺の当麻曼荼羅図を最古とし、宝永6年(1709)制作の地蔵院本が最後となる。また、海北道利の作例は、元禄14年(1701)の円通寺本を最古とし、享保8年(1723)の長興寺本が下限であり、17世紀後期から18世紀半ばにかけて活躍したことがうかがえる。その後、海北姓絵師の作例は見出されず、海北派絵師の様式で制作される模本も、享保11年(1726)の任聖寺本を下限として、作例が見出されなくなる。模本は、海北姓絵師たちの活動期約50年の間に、豊前・豊後地方に広がっていったのである。― 22 ―― 22 ―
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