鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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その後も警察の取り締まりは収まることはなく、大正13年(1924)6月に開催された第3回仏蘭西現代美術展では、展覧会に先立って行われた警視庁の臨検で、オーギュスト・ロダンの《接吻》などが、風紀上好ましくないという理由で撤去を命じられた(注9)。さらに、同展では、油彩画の全裸像6点のうち、絵葉書制作を許可されたのはわずか2点に過ぎなかったことを当時の新聞が報じている(注10)。このように、次第に厳しさを増す警察の取り締まりに憤慨した画家たちは、「裸体作品問題解決同盟会」を結成し、同年6月28日に、神田青年会館にて講演会を開催するなど、ようやく画家たちが団結し、警察に抗議する姿勢を見せたのであった(注11)。しかし、その一方で、帝展内部で取り締まりを未然に防ごうとする、いわゆる「自浄作用」が働いた事例が、同年10月に開催された第5回帝展で発生した。第5回帝展においても、警視庁による臨検が行われたが、帝国美術院内部から新海竹太郎の《歓喜天》が風紀上好ましくないため、撤回すべきという意見が出たのである(注12)。当初、新海は帝国美術院に抗議をしたものの、後に自発的に作品を撤回した(注13)。さらに、翌年2月の第12回光風会展では、太田三郎の《長椅子に寄れる裸婦》が警視庁に撤去を命じられた他、3月の第3回春陽会展においても、足立源一郎の《裸女》と梅原龍三郎の《臥裸婦》も同様の処置を求められた(注14)。このように、帝展発足以降も、警察は「風紀上好ましくない」という理由で取り締まりを行っていたものの、警察が具体的な方針について明言することはなかった。しかし、この度重なる取り締まりのためか、大正14年(1925)3月、警視庁保安課長の副見喬雄による、裸体画取り締まりの基本方針が『読売新聞』に以下のように掲載された。 公衆の観覧に供する展覧会場に陳列される絵画又は彫刻で、風俗を乱し公安を害する虞れありと認めた時は治安警察法第十六条に依ってその公開を禁止することになつて居る。(中略)之が認定は先づ当時の社会状況から見て斯かる作品を公開観覧に供して其の安寧、風俗を乱し社会に悪影響を与ふるの虞れあるか否かによつて決するものである。(中略)之に対して一部の美術家が『人の叡智に基づく作品に干渉するは良くない、況んや芸術に理解無き警察官が干渉する事は間違つて居る。風紀の維持上止むを得ないならば適当の諮問機関にかけて之を諮問する様にした方がよい』と云つて居るが此の議論には余程矛盾と誤解がある様に思われる。人の叡智に基く作品に他人が干渉するのが悪いと云ふことになればかゝる作品を審査することが出来なくなる許りか、諮問機関を設ける事すら不― 310 ―― 310 ―

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