鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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(2)昭和11年文展における「日本的」な精神の重視必々となつて来はしまいか。(中略)警察官は其の製作若しくは芸術上の価値に就いては干渉するのではなく、それは芸術家の自由に属するものである。が併し一度作品が出来上つて之れを公衆の観覧に供することになると芸術上の点よりも寧ろ一般風紀上の問題になつて来る。(注15)(注…傍線部筆者)以上の副見の見解から、当時警察では、画家の「叡智」に基づいた作品でも、当局が風俗を乱すおそれがあると判断した場合は、取り締まる方針を取っていたことが明らかになる。さらに、続けて副見は当時の観衆の裸体画の反応について、以下のように述べている。 序でに記したいのは新聞紙上に現れた意見など見ると、多くは警視庁の執つて居る方針と異つたものが多いが、当庁に来る投書の大部分は当局の処置を肯定したもの、或はそれ以上の取締りをして欲しいと云ふのが多いことである。(注16)(注…傍線部筆者)副見の発言からは、大正中期になっても、観衆の裸体画に対する理解は未だ深まっていないことが明らかになり、このことを踏まえると、警察は裸体画の取り締まりを強化せざるを得ない状況であったことが推測できるのである。この副見の見解が掲載された約7ヶ月後、第6回帝展が開催されたが、ここでも裸体画の取り締まりが行われ、西洋画部門では、鹿子木孟郎の《赤手空拳》が、警視総監の太田政弘から直接局部の描写について警告を受けたほか、日本画部門と彫刻部門においても取り締まりが行われた(注17)。先述した副見の発言を踏まえれば、市民の苦情を未然に防ぐために、警察は取り締まりを強化したと考えられる。このように、帝展開催後も厳しい取り締まりが行われていたが、管見の限りでは、その後の第7回展から第15回展までは目立った取り締まりは行われなかった。昭和10年(1935)5月、岡田啓介内閣は帝国美術院規程を廃止し、新たな帝国美術院官制を制定した。この一連の改革を、当時の文部大臣・松田源治の名を取り、「松田改組」と通称されるが、反官展を標榜していた二科会などのメンバーを新会員に任命したほか、無鑑査出品制度を廃止するなど、画壇に大きな混乱を招いた。この「松田改組」については、既に研究の蓄積がなされているため、本稿では詳細には述べな― 311 ―― 311 ―

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