いが、増野恵子氏が指摘している通り、帝国美術院の改組を通じて在野団体の官展への参加を促し、美術界の一体化を図ろうとしたものであった(注18)。この「松田改組」の結果、第一部の日本画と第二部の西洋画を隔年で交互に展示することが決定したため、昭和11年(1936)の改組第1回帝展では、西洋画の展示はされなかった。その後、再改組が行われ、同年秋に文部省主催の「昭和11年文展」が開催されるに至った。この昭和11年文展では、再び4部門開催となり、若手作家を中心とした鑑査展と帝国芸術院会員などを中心とする招待展の2回に分けて開催された。この間、警察による裸体画取り締まりは、管見の限り行われなかったが、ここで注目すべきは、「日本的」な作品が当時の政府内で求められていたことが、以下の衆議院での松田と大口喜六の答弁から明らかになる。〇大口委員 …ヤハリ美術ノ研究ハ最モ必要デアリ、又美術ニ表ハレタ所ニ依ツテ、其時ノ風潮、文化ノ程度ト云フカ、国民全体ノ状態ガ能ク分ルカラ、私共ハ政治ノ参考ト云フカ材料資料ニナルモノトシテ常ニ大イニ必要ヲ感ジテ居ル、此見地カラ見タ今日ノ帝展如何ト云フ問題デス、今日我国ノ帝展ト称スルモノニ表ハレテ居ル日本画デス、或ハ西洋画或ハ彫刻、之ニ対スル今日ノ日本ノ世態、人情、政治ノ有様、文化ノ状態、思想ノ有様、是ト帝展ノ彫刻絵画ニ表ハレテ居ル所ノ状態、之ヲ文部大臣ハ何ト見テ居ルカ此処ガ私ノ今日伺ハント欲スル所デアリマス〇松田国務大臣 …ソレニ付テ帝展ノ方ノコトニ付テモ考ヘガアリマスケレドモ、素人デモアルシ、能ク分リマセヌガ、私ノ直覚シタ所デハ余リニ眩シイ、何ダカ分ラヌヤウナ絵ガ出テ居ルト云フコトハ、甚ダ不愉快ニ思ツテ居リマスガ、サウ云フ点ニ向ツテハ考ヘテ見ヨウト思ツテ居リマス〇大口委員 …是ハ文部大臣ト同感デス、ト云フノハ私モサウ云フ風ニ見ル、アナタガ絢爛綺麗ビヤカニ過ギテ居ルト御覧ニナルノモ、素人眼トシテハ達見ダト思フ、実際技巧ニ進ンデ精神ニ欠ケテ居ルト思フ、帝展ノ絵ヲ見ルト、サウ云フ感ジガ強イ(中略)所ガ真ノ古来ノ日本ノ大精神ニ以テ、有ユル文化ヲ通シテ我ガ日本ノ帝国ノ大文化ヲ建設シタ大見地カラハ、段々遠ザカツタモノニナツテ行ク、技巧ガ益々巧ニナツテ、精神ニ欠ケテ居ル(中略)之ニハ帝展ト云フモノヲ余程根本カラ、御改革ナサラナケレバイカヌト思フ…(注19) (注…傍線部筆者)以上のことを踏まえれば、当時の政府は美術に「日本的な精神」を求めていたことが― 312 ―― 312 ―
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