(3)帝展裸婦像の様式(4)昭和11年文展の裸婦像の様式明らかになり、あくまで推測に止まるが、昭和11年文展の西洋画部門においても、このような精神性が重視された可能性があったとも考えられよう。それでは、帝展ではどのような裸婦像が出品されたのだろうか。計15回開催された帝展では、計398点の裸婦像が出品された〔表1〕。先述した通り、第7回展以降は前年の厳しい取り締まりがあったためか、後ろ向きの裸婦や局部が見えないよう足の角度に配慮した作品が多く見受けられたが、回を重ねるごとに全裸像が徐々に増加した。さらに帝展の裸婦像において最も注目すべき点は、第7回展以降、日本が当時統治下に置いた中国や朝鮮、南洋の要素を取り入れた裸婦像が多く出品されたことである。その代表的なものとして、第7回展に出品された瀬野覚蔵の《よそほひ》〔図3〕と第15回展の片岡銀蔵の《融和》〔図4〕が挙げられる。前者は2人の裸婦がチマチョゴリと思しき服を女性に着付けている様子を描いたもので、後者はベッドに横たわる全裸の日本人女性がマイクロネシア圏の少女と見つめあう様子を描いた作品である(注20)。このような作品が制作された背景として、明治43年(1910)の日韓併合や、大正11年(1922)のヴェルサイユ条約による日本の南洋諸島の管理権獲得などが挙げられ、これらのような当時の時局と関わる裸婦像を描くことにより、画家たちは取り締まりを回避しようとしたことが推測できる。さて、先述した通り、昭和11年文展では鑑査展と招待展の二つに分けて開催された。まず、鑑査展の西洋画部門では、計373点の入選作のうち、裸婦像は22点であった〔表2〕。この鑑査展において特筆すべき点は、「海女」に代表される海辺に裸婦を配した作品が多くを占めたことである。最も注目を集めたのは、海辺に集まる8人の海女を描いた、伊藤清永の《磯人》〔図5〕である。この作品はとりわけ、多くの批評家の注目を集めたが、その中でも独立美術協会に属した林武が「ビナスの寓意が日本式になったもの」と評していることは注目に値する(注21)。これらを踏まえると、「日本的」である海女などを描くことによって、裸体画を描く口実を得ようとしていたと推測できる。一方、招待展では104点のうち、裸婦像は計14点出品された〔表2〕。これらの作品の多くは鑑査展と大きく異なり、ベッドに横たわる裸婦像など、室内を背景にした作― 313 ―― 313 ―
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