注⑴近代日本の裸婦像の主な先行研究は以下の通りである。匠秀夫「「朝妝」─裸体画問題とその前後」高階秀爾責任編集『全集 美術のなかの裸婦12 日本の裸婦』集英社、1981年、118-127頁;中村義一「美術における性と権力─裸体画論争」『日本近代美術論争史』求龍堂、1981結品が多くを占めた。特に、室内にいる裸婦と2人の着衣の女性を描いた鬼頭鍋三郎の《室内》〔図6〕は「流行のモチイフ」と評されている通り、室内に裸婦を配した作品が多く出品された(注22)。このように、全裸像が多く出品されるようになったものの、いずれの作品も局部が見えないように描かれており、この頃も画家たちは細心の注意を払って裸婦像を制作していたことが考えられる。以上のことを踏まえると、昭和11年文展においては、警察による裸婦像の取り締まりは大々的に行われなかったものの、帝展と同様に、画家たちは当時の政局を意識して制作せざるを得ない状況であったことがうかがえるのである。本研究では、帝展と昭和11年文展に出品された裸婦像を、当時行われた取り締まりを視座に据えることにより、大正後期から昭和初期にかけての裸婦像の変遷の考察を試みた。帝展初期においては、風紀を乱すおそれがあるか否かで裸婦像が取り締まられていたため、画家たちは特に局部の描写に細心の注意を払っていた。しかし、帝展中期以降、画家たちは裸婦像を描く際、これと併せて当時の政局の要素を取り入れることにより、取り締まりを未然に防ごうとしたと考えられる。このように、当時画家たちは警察や政局などを配慮しながら、裸婦像を制作したことが岡田三郎助の以下の発言から明らかになる。 …世間の人は多く此問題(筆者注…裸体画問題)を一途に警視総監の方針一つで決る様に云ふが本当は時の総理大臣の行り方一つに係はるのです(注23)この岡田の発言を踏まえれば、美術を奨励するはずの機関である官展が、当時の政局によって方針が左右されていたことが明らかになり、画家たちはそれを意識して裸婦像を制作するという、ある種の「取り締まり」が行われていたという新たな問題点が浮かび上がるのではないだろうか。― 314 ―― 314 ―
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