1.1 日本滞在を中心とした日程の検証ノルデ財団所蔵のアダの講演用原稿には以下のような記述がある。「ソウルからとても美しく山々が連なる朝鮮半島を列車で通り抜け、プサンへ行き、そして船で下関へ行って、それから東京まで列車で行きました」「これにて、私たちの日本訪問は終わります。6日6晩かけて私たちは神戸からまれに見るほど美しい内海と黄海を抜けて中国の大沽へと航行しました」(注3)。一つ目の文章に出てくる東京到着については、ノルデの自伝において「我々が通った線路は、ちょうどその日、ミカドも通ることになっていた」(注4)と述べられている。還幸を待つ群衆の様子を活写するノルデやアダの記述を読むと、ノルデ一行が乗車していた列車のすぐ後に到着した列車がお召列車であったようだ。大正天皇は1913年10月18日に東京新橋停留所を出発し、22日に還幸しており、23日の『官報』には「二十二日午前九時五分静岡御用邸御出門同九時十五分静岡停車場御發車午後二時四十五分新橋停車場御着者同三時五分還幸アラセラレタリ」とある。『鉄道・船舶旅行案内』(大正2年10月号)を見ると、13時50分に新橋に到着する列車がある。この列車は下関新橋間を走る特別急行列車で寝台車・食堂車を備えていた。前述のアダの記述およびノルデの自伝の記述を素直に読むと下関から東京へは途中下車せずに向かったように思われる。また、後述の大陸・朝鮮半島の旅程を考えても、東京入りまでさほど時間もなく直行した可能性は高い。そうであれば10月21日下関9時50分発の特別急行列車に乗り、22日13時50分頃に新橋に到着したことになる。東京にいつまで滞在していたかは不明だが、『Emil Nolde und Südsee』で、11月4日、神戸を出発、長崎へ向かう営口丸の船上あり、大沽へ向かったことが指摘されている(注5)。日本郵船の配船表(1913年7月18日-11月20日)を確認すると11月1日神戸発、2日門司発、3日長崎発、8日大沽着の営口丸の航行が記載されている。前述の図録の指摘とずれるが、11月5日の書簡で日本から中国へ航行中であると述べていること(注6)、神戸新聞等で確認できる中国大陸行の航行予定や当時の天候を合わせて考えると、11月1日に神戸を出発し、3日長崎から中国へと向かったと考えてよいのではないだろうか。入国の日付に関しては出国時のような手がかりはない。関釜連絡船を利用した可能性が高いが、同連絡船は毎日運航していたためである。しかし、アダからグスタフ・シーフラーに宛てた奉天の写真入り葉書(注7)に大正2年10月16日の消印が押されているため、16日頃は奉天にいたのだろう。消印はX3型の櫛形日付印で、地名部分は読めないが同型の印が1906年から1913年まで満州で用いられていたことや葉書に― 319 ―― 319 ―
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