鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
33/455

海北姓絵師たちの素性については定かでないが、円通寺本の表装裏の銘文から、豊前国中津藩主、小笠原家に仕えた絵師であることが分かる(注10)。海北姓絵師たちの作が伝わる寺院のうち、浄安寺は寛永17年(1640)に、本譽を開山、中津藩主小笠原政直を開基として開創された寺院であり、また峯高寺は小倉藩小笠原家の菩提寺である。浄安寺本は模本の中でも最大のもので、会衆や動物の描きこみも細かく、さらに描表装で縁取られたものである。また、峯高寺に伝来する海北友倩作の当麻曼荼羅図も大きさ縦284.6cm、横258.6cmと大型のもので、藩主ゆかりの寺院にこのような大幅の制作を任されていることからも、小笠原家の下で活動を行っていた絵師であることは間違いないだろう。友倩・道利は、海北姓を名乗ってはいるが、海北友松に始まる、いわゆる海北派とのつながりは定かではない(注11)。友倩・道利の関係についても判然としないが、活動期間が重なりつつも、友倩の作が17世紀後期から18世紀初期にかけて、道利の作が18世紀初期から前期にかけて伝来していることから、親子か師弟かの関係にあったのであろう。海北姓絵師たちがどれほどの規模の工房で活動していたのかも不明であるが、模本には色指定と思われる文字が随所に見られ、同一の涅槃図で会衆や動物たちの描写に技量の差が見られることから、制作に当たって弟子を含む複数人で携わっていたことは明確である。なお、藩主に仕えた絵師については、将軍の絵師である狩野派の絵師と、藩主の国許で抱えた絵師がおり、画事の格式によって担当が振り分けられていたことが三宅秀和氏によって指摘されている(注12)。海北姓絵師たちは、小笠原家に仕えた国許の絵師たちであり、主として小笠原家独自の画業の他、地域の寺院での仕事を請け負っていた絵師たちだったのだろう。海北姓絵師たちの作例は、享保8年(1723)の長興寺本を最後に確認されなくなるが、この問題については小笠原氏の改易との関連が指摘される(注13)。享保元年(1716)、小笠原氏は世継断絶により改易となっている(注14)。小笠原氏という庇護者を失い、次第に海北姓絵師たちの活動の場も失われていったのであろう。おわりに大楽寺本の模本は江戸時代17世紀後期から18世紀前期にかけて、主として海北姓を名乗る絵師たちによって制作された。模本としては、まず大楽寺本の忠実な写しである洞昌寺本が制作された。その再現性への強いこだわりからは、江戸時代前期17世紀の宇佐地域で、大楽寺本が特別な信仰を集めていたことがうかがえる。次いで海北姓― 23 ―― 23 ―

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る