た、音御前以外の女面は②しかないが、《静物L》に描かれた女面は《仮面とダリア》の女面と随分と表情が違う。むしろ《静物L》のほうが②に近いかもしれないが、こちらもまた②のように髪の部分が剥落している様子は描かれていない。別の面があったのか、あるいはノルデが想像で補って描いたのかは今後の調査の課題である浮世絵に関しては〔表2〕の10点を実見し、画題を同定した。今回の調査に基づきつつ、画題等が不明の2点の同定や収集時期の調査およびノルデに浮世絵が与えた影響などの考察を今後の課題としたい。2.2 ノルデと和紙マンフレート・ロイターは「日本において彼は良質で繊細な手漉き紙を見つけた。それらは広がる色彩を完璧に吸収した。中国では粗い茶色の藁紙、そして調査とスケッチのための簡素なブロック状の紙を見つけた」と述べており、ノルデが東アジア滞在で得たものとして東洋の紙を挙げている(注17)。ノルデは和紙を多用しその性質を最大限に生かしており、この観点は重要なものと考え、最後に検討する。確かに日本滞在で描いた絵の多くは和紙が用いられていた。しかし、ノルデの和紙の使用はそれ以前に遡ることは留意すべきだろう。水彩で和紙が用いられはじめるのは、1910年頃と言われている。また版画では1905年の作品にも和紙の使用例が確認される。レンブラント研究等が示すようにヨーロッパにおいて和紙は版画の支持体として既に多くの使用例が確認でき、ドイツ表現主義の版画においても様々に使用されていた。また、和紙と版画という観点でいえば「浮世絵」も看過できないが、既に述べたように、ノルデの遺品には10点の浮世絵が残されており、どうやら1905年には浮世絵の展示を見ているようで(注18)、ノルデと浮世絵の出会いは早くに遡れそうである。ノルデ作品の和紙はただの支持体には留まらない魅力を持ち、「描かれざる絵」等では絵の具の浸透は紙を染めていると言えるレベルまで達している。また、画面上で長い繊維をほつれさせ、絡ませマチエールを作り出しており、紙は絵の具が置かれるだけではなく絵画という物質の一部を形成するものとなっている。このような和紙の使用方法は1920年代の作品においてもまだ顕著ではないようである。また、今回、1913年の東アジア滞在時の作品の裏面も確認したが、絵の具の浸透は「描かれざる絵」ほどではなかった。日本を描いた作品に使用されている紙は楮紙と思われる紙が主であり、中国の帆船をスケッチした作品は薄く平滑な紙であったが、これらとの出会いがノルデに影響を与えたかについては疑問の余地が残る。日本訪問以前からの和紙の使用の延長線上にあり、帰国後、水彩の技法を洗練させていくなかで、ノルデは― 323 ―― 323 ―
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