加えて、両素描の陰影表現にも注目したい。すなわち、ウィンザー城の素描では前屈みの姿勢を採ることでヘラクレスの左腹部から左脚にかけて落ちる影が、背後に翻る先の毛皮によって光が遮られることでその陰影を一層深いものにし、右肩や右腿に当たるハイライトと鮮やかなコントラストをなしている。この特徴は、ヴェネツィアの素描においても強調されており、とくに均一なハッチングによる陰影表現や、左の指先のみ白く残されている点からは特定の遮光物の存在を想起させる。したがって筆者の見解では、ヴェネツィアの素描はウィンザー城の素描を手本として、ヘラクレスとライオンの形態のみを写し取ったものと考えられる。先行研究で示された「ヘラクレスとネメアのライオン」を主題とする先行作例に加え、この図像系譜の延長線上に位置するものとして、1581年にアレッサンドロ・アッローリ工房によって制作されたとみられるウフィツィ美術館2階の東側回廊天井画、第29区画に描かれる同主題のフレスコ画(注17)を提示したい〔図14〕。ライオンの首に跨がり、その口を開いて取り押さえるヘラクレスの形態は、上述の先行作例に由来するものと言える。しかしこのフレスコ画では、ウィンザー城およびヴェネツィアの両素描で左脚に置かれていた重心が右脚に移されている。それゆえ先行する2葉において左半身の側へ傾いていたヘラクレスの上半身は垂直に立ち上がり、この動きに伴って、鋭角に突き上げられていた右肩も降ろされている。ここで「ヘラクレスとケルベロスの犬の噴水」の素描に立ち戻ると、噴水の頂点を飾るヘラクレス像は、上述のウフィツィ美術館の回廊天井画に描かれたヘラクレスの形態に近い。すなわち、紙葉の上辺に沿ってやや窮屈に下げられた頭部と、重心の移動に伴って垂直に立ち上がる右半身がつくる方形に近い輪郭、さらに胴部から離れた位置で猛獣を掴む左腕の形態に、両者の共通性が認められるのである。ここまでの考察から、このヘラクレス像の形態をめぐって、以下のような状況が想定される。まず、ウフィツィ美術館の回廊天井画に描かれたヘラクレス像は、ウィンザー城とヴェネツィアの2葉が示す造形に基づきながらも、とくにヘラクレス像の形態に、支脚の逆転など大きな改変が加えられていることが確認された。この造形の変化は、従来ライオンと闘うヘラクレスの姿に用いられてきた形態が、当該の噴水の素描において三ツ頭を持つケルベロスの犬を押さえつけるヘラクレス像に用いられることになったことと無関係ではないだろう。つまり先行作例においてライオンの口を縦方向に開いていたヘラクレス像は、「ヘラクレスとケルベロスの犬の噴水」の素描においては、ケルベロスの三ツ頭のうち左右の2つを横方向に引っ張るよう変更する必要が生じたことがわかる。それゆえ本素描は、ライオンと対峙するヘラクレスを描き― 329 ―― 329 ―
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