注⑴『(展覧会図録)み仏の美とかたち─大分の仏教美術1400年の輝き─』、大分県立歴史博物館、絵師たちが、大楽寺本を基に構図を整理し、また寺院からの注文に応じて数種類の粉本とも呼ぶべき型を制作していったものと考えられる。数多くの写し崩れや構図の不均衡が見出された萬弘寺本は、海北姓絵師たちが自らの様式を確立する過渡期の作とみられ、萬弘寺本の制作された元禄13年(1700)頃に、海北姓絵師たちの様式が完成されたものと見られる。海北姓絵師たちの作り上げた型には、少なくともBグループ・Cグループの2種類が確認され、主として涅槃図の大きさによって型を使い分け、それ以外は寺院からの要望や予算に応じて動物の数を増やしたり、また会衆の着衣の文様を細やかにしたりと、手を加えていったのであろう。いずれも基本的には大楽寺本の彩色を踏襲するが、地蔵院本と大雄寺本は大楽寺本と大きく異なる彩色・文様が施され、さらに両者の描写が細部まで一致を見ることから、特別の注文を受けたものと考えられる。両寺院は本末関係にあり、寺院同士の密接な関係が共通の図様を持つ涅槃図の作成に表れているようである。また、海北姓絵師たちのつくりあげた型は、他の絵師にも影響を与え、模本の模本ともよぶべき任聖寺本が成立したと推定される。以上、海北姓絵師たちによる大楽寺本模本の展開を考察した。海北姓絵師たちによる模本の制作からは、原本を参照しつつ、その図様を再構築し、さらに注文に応じて変化を加え、自らの様式として定着させていった近世絵仏師たちのあり方が浮かび上がる。海北姓絵師たちが、何故大楽寺本を原本としたのか、近世において大楽寺本がどのように受容されていたのかは大きな課題であるが、今後は地域史や寺院史の調査をさらに進め、豊前・豊後国における近世仏涅槃図を研究していきたい。2006年⑵金剛宝戒寺本については、山本聡美「金剛宝戒寺所蔵「仏涅槃図」の図像と制作背景」『大分県立芸術文化短期大学紀要』45、2008年を参照した。また、大楽寺本に関しては、以下の文献を参照した。①八尋和泉「宇佐の美術工芸」『宇佐市史』下、1979年②渡邉文雄「大楽寺の美術・工芸」『宇佐宮大楽寺』、1987年③ 古賀道夫「宇佐・国東の絵画 涅槃図の広がりとその作者のことなど」『大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館報告書第8集 宇佐国東の寺院と文化財─宇佐国東地域寺院関係歴史資料調査報告書─』、1990年④前注⑴― 24 ―― 24 ―
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