鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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㉜ 東密における焔魔天曼荼羅の成立とその受容研 究 者:東京藝術大学 大学美術館 学芸研究員  樋 口 美 咲はじめに─問題の所在焔魔天は古来インドでは死を象徴する神ヤマ(Yāma)であったが、仏教に取り入れられた後、死後の世界の支配者となった。密教では特に焔魔天と称され、護世八方天あるいは十二天の一として地獄を司る存在となる。この焔魔天を供養し修する焔魔天供は、除病や延命、息災、安産が期待され、日本においては特に院政期に隆盛する。すでに10世紀末頃には焔魔天供に関する記録が見出せるが、密教修法として整備されたのは摂関末期から院政期とされ、鳥羽院政期に流行の端緒を見る指摘がある(注1)。焔魔天供には独尊の焔魔天画像や焔魔天を主尊とし、その周囲に眷属を配した焔魔天曼荼羅が焔魔天供に懸用されてきた。焔魔天曼荼羅は、忿怒形の焔魔天を主尊とした19尊からなる台密系焔魔天曼荼羅と、菩薩形の焔魔天を中心に11尊で構成された東密系焔魔天曼荼羅にはやくから分類されている。台密系焔魔天曼荼羅については、個別の作品解説の他、主尊・焔魔天や諸眷属の像容、成立背景、様式などの研究が諸先学により進めらている(注2)。一方、東密系焔魔天曼荼羅に関しては、おおよそ心覚(1117-1180)による『別尊雑記』所収の白描の焔魔天曼荼羅図〔図1〕(以下、『別尊雑記』本とする。)を定型として、個々の作例を照らし合わせ、その構成が共通することを指摘するに留まり、台密系焔魔天曼荼羅に比べ遅れをとっていることは否めない。そこで、本研究では東密系焔魔天曼荼羅の成立背景を探るべく、それに関わる基礎資料の整理を行い、まず主尊・焔魔天の図像が東密のなかで相伝された様子を検討した。そして諸作例の拠り所とされる『別尊雑記』本に描かれる各尊の図像について考察を試みた。1 東密系焔魔天の図像東密系とされる焔魔天画像には京都・醍醐寺本、MIHO MUSEUM本、個人本、東京国立博物館本といった独尊で描かれた画像や、フリア美術館本、個人本、神奈川・称名寺本、滋賀・朝日観音寺本などの曼荼羅、そして『別尊雑記』本、『覚禅鈔』本などの曼荼羅の図像がある。これらの焔魔天の図像は、菩薩形で左手に人頭幢を持ち右手を仰掌し、左足を垂下して水牛に坐しており、ほぼ一様と言ってよい。焔魔天について説く経典・儀軌のうち図像の根拠が与えられるものに『聖無動尊安― 338 ―― 338 ―

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