鎮家国等法』(注3)や『金剛頂瑜伽護摩儀軌』(注4)、『十二天供儀軌』(注5)がある。しかしいずれの儀軌とも一致せず、この図像の典拠を求めると空海所伝の現図胎蔵曼荼羅の外金剛部院南方に位置する焔魔天に帰着する。そこでこの図像が東密において如何に相伝されてきたか、事相書類から確認しておく。まず東密における焔魔天供のキーパーソンとして、石山寺普賢院に住した学匠・淳祐(890-953)が挙げられる。頼瑜(1226-1304)『薄草子口決』第十七「焔魔天供」(注6)には今天別無本経軌等。但大日経同疏形像眷属等説之。胎軌疏等印言説之。大旨以石山次第所習伝之也云云とあり、焔魔天には本経軌等がなく、大旨は「石山次第」、すなわち淳祐の次第によって習い伝えられるという。この「石山次第」は実運(1105-1160)口、寛命(1160年頃)記の『諸尊要抄』第十一「琰魔天」(注7)や覚禅(1143-?)『覚禅鈔』巻第一一八「焔魔天法」(注8)に引用される。『諸尊要抄』第十一「琰魔天」では、(下線部は執筆者による。また種子は〈 〉で表わした。以降も同じ。)次第石山。以亥刻可行之云云壇上有〈ah〉悪字、放光明遍大地、成瑠璃宝地。其上亦有〈ah〉悪字、放光明成宮殿。七宝荘厳幡蓋、宝樹周匝荘厳。此殿四方四開。毎門皆有階道。此殿内有壇場。其上有〈yam〉字。変成壇荼印。印変成琰魔法王。乗水牛。左右前後有后、妃、婇女、太山府君、五道冥官等眷属囲繞。と、焔魔天の図像については明らかでないが、淳祐『要尊道場観』巻下「焔魔天」(注9)には、楼閣中有水牛座、座上有〈yam〉焔字。字変成檀荼印。印変成焔魔天。肉色。左持人頭幢、右手如与願手。乗黄牛。後本赤色乗黒牛。眷属囲繞云云とあり、肉身色で左手に人頭幢を持ち、右手を与願印のごとくする焔魔天の図像が明確に述べられている。淳祐から数代下った醍醐寺座主実運の『秘蔵金宝鈔』七「焔魔提婆」(注10)にな― 339 ―― 339 ―
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