③ 渡邉雄二「近世の絵仏師─忘れられた画家たち─」『(展覧会図録)近世の絵仏師展』福岡市美術館、2004年。海北友倩・道利が江戸時代初期に豊前国の小倉・竜王・木付・中津を支配した小笠原氏に仕えた絵師であったこと。また、友倩・道利の事跡が明らかでないのは、小笠原氏が世継断絶によって改易となったためではないかと推察された。⑼ 大楽寺本が縦202.0cm。横186.5cm。洞昌寺本が縦200.7cm 横182.4cmであり、大楽寺本が縦横⑷ 赤澤英二『涅槃図の図像学─仏陀を囲む悲哀の聖と俗 千年の展開─』中央公論美術出版、⑺ 以下、特に標記がない場合の所在地は大分県とする。⑻ 円福寺本は、現住職廣見宗泰氏によると、先代住持の頃に、個人から寄附されたものという。詳細な伝来経緯は不明であるが、海北姓の絵師の手による仏涅槃図は国東市の萬弘寺を東限としているため、宇佐・国東半島地域のいずれかの寺院にもとあったものが、寺院の廃絶など何らかの理由によって個人宅にて保管されることとなったのではないかと見られる。現在は円福寺に保管されるため、これ以後も円福寺本として標記する。⑽ 元禄十四年八月/住職 大雅/施主 永松太郎衛門/御幡伊左衛門/総檀中 明和六年 表具再興/永松寺 春巌代/画師/中津国主任海北道利/宇佐大神氏也/再興施主/竹内清左衛門/同 曽右エ門/藤波九左衛門/再興 昭和五十一年十月(『宇佐国東の寺院と文化財』29頁)⑾ 前注⑵①633頁 八尋氏は、海北派の下で画技を学び、海北姓を名乗ることを許された絵師た⑿ 三宅秀和「大名家における狩野派作品の利用と絵師の任用─熊本藩細川家の事例を基に」(平成29年7月22日美術史学会東支部例会 於学習院大学 研究発表要旨『美術史』184、319~320頁)⒀ 前注⑶③50頁⒁ 大分県中津市役所内中津市史刊行会『中津市史』、1966年、583頁付記本稿執筆に当たり、御教示を賜りました関係者各位、調査および図版掲載にあたり御高配を賜りました御所蔵者様に、心より御礼申し上げます。 ⑤ 髙宮なつ美「大楽寺所蔵「仏涅槃図」について」『大分県立歴史博物館研究紀要』15、2014年⑶ 大楽寺本模本および海北姓絵師については、以下の文献を参照した。 ① 前注⑵①宇佐市内に伝来する仏涅槃図を調査される中で、海北友倩・道利について、豊前国から京都の海北派絵師のもとへと修行に出て、「海北」姓を名乗ることを許された画家たちではないかという見解を示された。 ② 前注⑵③大分県宇佐市・豊後高田市・国東市・杵築市・日出町からなる宇佐国東半島地域に広がる海北友倩・道利の手による大楽寺本模本をまとめられ、その図様がほとんど同一のものであることを指摘された。2011年、143頁⑸ 前注⑵③13頁⑹ 大楽寺文書 三巻 「宗圓覚書」 「大樂寺舎利塔下向應永十五年五月十八日酉剋/涅槃像應永八年八月十日下著/護广堂應永廿二日造畢/應永十三年夘月廿九日性恵之/彼銘文當寺末寺江嶋圓福寺候/永正十年六月十二日移之畢/筆者宗圓」(※傍線筆者 『大分県史料』2、284頁)とも2cmほど大きい。ちではないかと推定されている。― 25 ―― 25 ―
元のページ ../index.html#35