ると、壇上有〈a〉悪字。放光明遍照大地、成瑠璃宝地。其上亦有〈āh〉字、成宮殿。七宝荘厳、幡蓋宝樹周匝厳飾。此殿四方四門開通。毎門皆有階道。殿内有壇場。其上有〈yam〉字。変成檀荼印。印変成焔魔法王。肉色、左持人頭幢、右手与願印。乗水牛。左右前後有后、妃、婇女。太山府君、五道冥官等眷属囲繞。作此観已、加持七処。と、「石山次第」(点線部)と『要尊道場観』(波線部)がちょうど組み合わさった道場観が述べられる。『秘蔵金宝鈔』は、勧修寺寛信(1084-1153)の秘説を実運が記したもので、小野醍醐の筆頭院家・三宝院流の重書の一つとされる(注11)。これに説かれた道場観や詳細な修法次第は、勝賢(1138-1196)記、守覚(1150-1202)編『秘鈔』巻第十六「炎魔天」(注12)や成賢(1162-1231)『薄双紙』初重巻第八「炎魔天供」(注13)に踏襲される。「淳祐─元杲─仁海─成尊─義範─勝覚─定海─元海─実運」と連なる小野流の血脈で、淳祐から実運の間、この事相がいかに習伝されてきたかを示す資料は見出せなかったが、12世紀前半には小野醍醐で「肉色」、「左持人頭幢、右手如与願手」という現図系胎蔵界曼荼羅に依拠する焔魔天の図像が脈々と相伝されていたことは確かだろう。なお、寛信の『伝受集』巻第三「炎摩天 四十一」(注14)にも、「形像 肉色。左手壇荼。右手肩前仰開。乗水牛柔軟。」と、今見てきた焔魔天と同様の図像を伝える。寛信は勧修寺流の僧であるが、『伝受集』のうち「炎摩天」を収める第三帖は、下醍醐大谷蓮蔵院主・覚俊(1083の頃)の伝であり興味深い(注15)。覚俊は第12代醍醐寺座主の実兄・覚源(1000-1065)から伝法灌頂を受け、その覚源は仁海(951-1046)の付法となる(注16)。『伝受集』に説く焔魔天の図像がすぐさま仁海の説と断ずるはできないが、醍醐を中心にその周辺おいてこの図像が相伝されてきたことを示す一つの根拠となろう。一方、広沢流に目を向ければ、成就院流祖の寛助(1057-1125)がいる。寛助の『別行』巻第七「琰魔王供次第」(注17)には、壇中有〈a〉字、成七宝荘厳宮殿。殿内有曼荼羅壇。其中央有〈yam〉字、変成壇荼印。印変成焔魔法王。身相肉色、左手持人頭幢、右手与願。乗黄豊牛。左右前後后、妃、婇女、太山府君、五道冥官等眷属囲繞。作此観已、誦穆欠真言。加― 340 ―― 340 ―
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